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夏の日

夏の暑い日だった。
公園の脇を通ると、子供たちがはしゃぎ、お母さん達はベンチのあたりに日傘をさして群れている。
間違っても私は『子供が好き』な部類には入らないと思う。
この公園ではしゃぐ子供たちが、隣の保育園から聞こえる金切り声が、私の鼓膜を震わせる雑音だった。

「ケンパッ!ケンパッ!ケンケンパ!」

夏の暑い日だった。
蝉の声が、耳の奥を木霊していた。
それは不思議な感覚だった。

「おめでとうございます」

まさかと思っていた。不安で不安で自分で何度も調べた。
あの人はなんて言うだろうか。
今も夫婦仲が上手くいっている友達もいれば、それがきっかけに関係がギクシャクした友達もいる。
だから私は、どうしても安心できなかった。
怖かった。

あの人のことは愛してる
だけど
全てが変わってしまったら
どうしよう

夏の暑い日だった。
日差しはお構いなしに私の肌を焼き、頬を汗が流れていく。
目の前の交差点では、黄色く点滅していた光がゆっくりと赤に変わり、やがて青く光って人々が動きだした。

「あーおかぁさん!白いところじゃなきゃダメなんだよ」

小さい頃の私は『お姉ちゃん』と言われることが嫌いだった。
弟が泣けば、母はすぐに飛んでいったから。
今まで独り占めできた母はもう何処にもいなかった。
大きくなるお腹を一緒に撫で、『姉』になることをあんなに心待ちにしていたというのに。
子供と言うのは本当に自分勝手だと、我ながら思う。

夏の暑い日だった。
よくある子供の遊びだったのだ。
横断歩道で白いラインだけを踏んで交差点を進む私は、ベビーカーに乗る弟と、共に歩く母が疎ましくて、母を置いてどんどん進んでしまった。
いつも「周りをよく見なさい」「右左(みぎひだり)を見なさい」と言われていたのに。
このとき私が気にしていたのは、弟への嫉妬心だけだった。
 
(キキーーーーーッッッ)

大きなブレーキ音がなり、幼子(おさなご)は何が起きたのかわからなかった。
唯一わかったのは、擦りむいた肘と足がヒリヒリと痛むことと、肌を焼く熱いアスファルトだった。

(ピーポーピーポー)

次に覚えているのは病院。
誰かが通報してくれたのだろう。
私は手足にガーゼを貼り、父が私を抱きしめて泣いていた。
近くに住む祖母が、弟を抱き(いだき)やはり涙の筋を作っていた。

気の強い祖母のまつ毛が濡れているのをみた時、私は取り返しのつかないことをしたのだと気がついた。

「ごめんなさぃぃぃぃぃ」

看護師さんに止められるのも聞かずに、私はわんわんと泣いた。
怪我をしても、消毒がどんなに痛くても泣かなかったのに……。
次々と溢れ出る涙も、肺から押し出され続ける大声も、何もかも抑えることができなかった。
窓の外ではアブラゼミが、私に負けじと大声で鳴いていた。

「おかーあさん!見てー!ねぇおかーさん!」

あの頃の私のような年頃の子供の声で我に返る。
私はあの日にフラッシュバックしていたようだ。
信号が再び青になったけれど私は交差点は渡らず、ふらふらと、通りから離れて見慣れた道に出た。

あの角の駄菓子屋さん。
小さい頃はよく吠える犬がいて、私はいつも泣かされた。
もう、怖くない。
老犬になったあの子は、軒先ですやすやと寝ていた。

そこの畑はいつも私たちが近道にしていたっけ。
今も様々な色のランドセルを背負った子供たちが、マンションの壁をよじ登って、畑の脇を駆け抜けるのだろう。

「遅い!心配したんだぞ?」

聞きなれた声を耳にして顔を上げると、彼が眉を寄せて立っていた。

「っ?何で??」

驚いた私は余程ぽかんとした顔をしていたのだろう。
彼はクスリと笑うと、私の手を取り、そして私を抱きしめた。

「ありがとう」

呟いた彼の言葉を、
私はずっと忘れられないだろう。

「連絡帰ってこないからこっちだと思って」

そういうと私の髪を撫で、再び『ありがとう』と唇を動かした。
あんなに不安だった気持ちが、スルンとほどけていくようだった。
彼の笑顔を見たら、不安の泡がパチンパチンとはじけて、喜びと幸せが私の中に広がっていった。

「ただいま」
「おじゃまします」

並んで靴をそろえると、顔を見合わせてクスリと笑った。
初めて彼がこの家に来た日、手土産を渡したり挨拶したりと慌てているうちに、靴をそろえ忘れて弟に馬鹿にされたのを覚えている。
あのベビーカーに乗っていた弟はすっかり大きくなり、生意気な、でもしっかりした青年になっていた。

「お帰り」
「仏壇、ちゃんと手合わせろよ」

『わかってる』と返事をすると、まっすぐに仏間に行き、蝋燭に火をつけた。
彼の家には仏壇はなく、初めはどうしていいかわからずにドタバタしていたものだ。
もう、すっかり手順を覚えた彼は、『どやっ』と声が聞こえてきそうな笑顔で手早く線香を立てる。

「ただいま!今日はね、報告があるの」

ねぇ忘れないで
小さい時のあの、記憶を
ねぇ忘れないで
純粋な瞳を
ねぇ忘れないで
私は愛されてるってことを

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