作品と作家


作家は誰しもが絵に選ばれる瞬間がある。

自由意志と関係なく。

涙が出ようとヨダレが出ようと、

ただ作品の方から作家が指名されるのだ。

そのとき独特な空気をまとい、

作家はある意味で作品の奴隷となる。

いやおうなしに造らされる姿が、

その宿命にも似た残酷さに翻弄されるさまが、

私は愛しくてたまらない。

作家には色々なタイプがいる。

ただ造り続けたいだけのタイプ。

名声も権威も求めるタイプ。

全く異なる業種の合間に創作するタイプ。

ここのところ、

実際にその人の口から聞いた訳ではなくとも

(この人は名声と権威を欲しているのだろうな)

と推測できる作家に数名あった。

主にSNSでの投稿や、画廊主とのやり取り、

何気ない所作の隅々に、それはハッキリと出る。

彼らはみな大変腰が低く、丁寧だ。

そのくせ目の奥だけがギラギラと光って、

絶対に許せない何かがそこに居座ってると分かる。

作家は絶対に世界を赦さない。

むしろ創作なんてついでの産物ではないだろうか。

この世に強烈な想いを抱いた人は、

それだけで立派な作家だという気がしている。

どうして自分が。

なぜ、自分ばかりが。

誰しも一度はとらわれる疑心の呪文。

その不満の坩堝のなかで、

世界への愛が爆発している。

いとおしい。くるおしい。はなれたくない。

この世界から認められたい。

この世界から愛されたい。

私が望むようなかたちで、愛されたい。

それは叶わない夢だ。

それでも作品は語り続ける。

本人が忘れてしまったことも、

本人が言葉にできていないことも。

作品はいつも作家の少し先を行っている。

導かれるように創作を続け、

作家はいつの間にか作品に育てられている。

筆の中に、絵の具のなかに、キャンバスのなかに

探しても答えは見つからない。

作品が作家を選ばなければ、創作物は誕生できない。

そう考えると作家に自由意志なんてものはなく、

ひたすら世を憎むか、不思議そうに眺めるばかりで、

決められた運命を生きる人なのかもしれない。


私が昨日 みて感じた、つまらない作品たち。

名声を得たくて積んだ技術、

認められたくて選んだ構図、

愛されたくてつけた色。

作家はなんて哀しい生き物なのか。

スランプすらもきっと決められていて、

彼らは愚直にその渦に飛び込み、

もがき、あがいて、悦んでいる。

作家はなんて愛しい生き物なのか。

私も文を書かずにはいられなかった。

彼らが心から愛しくて羨ましい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?