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【so.】郷 義弓[5時間目]

「いまからホームルームを始める」

 三条先生は教卓から宣言した。私は自分の席に着いている。

「せんせー昼ご飯は?」

 新藤さんがお昼ご飯について尋ねる。私は全くお腹が空かない。朝だって食べていない。自殺してから食事を摂るという行為に及ぶ必要がなくなってしまった。新藤さんは粘り強く先生と交渉している。やっと解決したと思ったら、これからクラスに聞きたいことがあると先生は言った。

「こないだ面談やったじゃないっすかー」

 そう言ったのは和泉ちゃん。彼女はいつも反抗的だ。

「年末の件はもういいんだ」

「いいってどういうことですか」

 サエさんが聞き返した。年末の件…きっと私の自殺の件。

「…えっとな、さっき人体模型が落ちてきたな」

 先生がそう言って、さっき落っこちたのは人体模型だったのだと知る。学園の七不思議のひとつ、夜に歌う人体模型のことだろうか。

「山浦が犯人ー?」

 和泉ちゃんがそう言って、どきっとした。確かにたまきちゃんの姿だけがない。だけど、それだけの理由で犯人にされなくっちゃいけないのだろうか。

「…まだ分からない」

「三条先生、でも、山浦さんだけいません」

 委員長もたまきちゃんの不在を指摘して、三条先生は嘆息した。

「山浦さん、面談のあと、怒って帰ってきましたけど」

 サエさんが、たまきちゃんの味方をする。私も参加したいけれど、透明の私にはそれができない。

「えっとな、山浦の件はあとで説明するから、まず俺の話を聞いてくれ。君たちの中で、裏サイトってものを知ってるのは何人くらいいる?」

 初めて聞く名前だ。

「何それー」

 新藤さんが先生に尋ねる。

「匿名で誰でも書き込めるネットの掲示板のことなんだが、このクラスの掲示板もあってだな」

「先生」

 ナオちゃんが消え入りそうな声で言った。

「なんだ」

「もう、郷さんのことがあって、さっきの人体模型落とすような酷いことがあって、これ以上、刺激の強いこと、やめてください…」

「いや、なんというか」

「先生、先生、ほんと、ワタシ、つらい…。さっきから気持ち悪くて吐きそうなんです」

 そう言うとナオちゃんは吐くような真似をした。本当に吐かなかったみたいで安心した。

「大丈夫か。ちょっと隣の席だから悪いけど、伊村な、細田を保健室まで連れて行ってくれないか」

「…わかりました」

 伊村さんが、ナオちゃんに肩を貸して教室から出て行く。

「他の者も気分が悪くなったりしたら、遠慮せず言うように。それで…どこまで話をしたか…」

「このクラスの裏サイトについてです」

「そうだ。えー、実は先生は前から裏サイトの存在を知っていたんだけれど、取り立てて問題視はしていなかった。でもな、今日の書き込みの中に、看過できないような物があったんだ」

「カンカってなんですか?」

 岡崎さんが尋ねる。

「殺害予告じみたものがあったんだ」

 ネットの掲示板という単語が、なんだか酷く頭に響く。私の忘れている何かがまだあるような気がしてくる。

「ひっ」

 声を出したのは、つぐちゃんだ。彼女はちょっと臆病だから、怖かったのかもしれない。

「いいか、ちょっと気分を悪くする者もいるかもしれないけれど、読み上げるぞ。…やってやるやってやるやってやるよ見とけよ。この書き込みが午前中の最後の書き込みだ。そして人体模型が落ちた」

「じゃあ山浦が書き込んだんだ!」

 和泉ちゃんが決めつけて言う。何だか悲しい気持ちになってしまう。

「…あくまで可能性が高い、推測の話だ」

「推測で犯人扱いするんですか」

 サエさんが反発すると、和泉ちゃんは反撃した。

「決まりじゃん」

 みんなが争うところ、見たくないな。たまきちゃんが戻ってきてくれたら、きっと全部の疑いは晴れるはずなんだけど。

「大事なのはな、この後なんだ」

 先生は話を続ける。

「先生ソレどうやって見んの?」

 のりんがスマホ片手に尋ねた。

「わざわざ見なくてもいいぞ。今から読み上げる。…えーと、田口、お前の名前が出てくるからな」

「は? ワタシ?」

 ヨシミちゃんは吃驚して言った。

「えー、行くぞ。…田口もたまにはいいこと言うわ。ホント死ねば良かったのに」

「何だよそれ! ふざけんな! 誰だよ!」

 ヨシミちゃんはみんなを睨みつけた。

「落ち着いてくれ。次にもうひとつ書き込みがあって終わってるんだが…読むぞ。…それじゃあまずあんたから殺してやるよ。特定したぞ」

「きゃああ!!」

 つぐちゃんがさっきよりも大きな声で叫んだ。

「せんせーもうやめよう。怖いよ」

 もじゃも不安そうに言う。こんな陰湿なことを、クラスの誰かが書き込んでいたってことなんだろうか。にわかには信じがたい。

「書き込みはここまでだ。俺だって全員を集めてこんなの読みたくなかったけどな、殺害予告があったらもう事件になるんだ」

「じゃあ、今から犯人捜しをするんですか?」

 委員長が嫌なことを言う。

「別に魔女狩りをするんじゃないんだ。ただ、起こるかもしれない事件を阻止したいだけなんだ。だからみんなには衝撃的だったかもしれないが、明らかにした。それで聞きたいんだが、この書き込みに心当たりはないか?」

 誰も何も言わない。教室は一瞬、静寂に包まれる。

「まあ、自分が書き込んだとは名乗り出たりしないよな。じゃあ、その一つ前の書き込みのことが分かる者は?」

「ジョーさー、すっげ気分悪いんだけど」

 ヨシミちゃんが不満を述べる。

「保健室行くか?」

「そういうのじゃねーんだよ!」

「この発言に心当たりは?」

 先生に尋ねられてもヨシミちゃんは何も答えない。それを見てジンさんが、代わりに答えた。

「ヨシミちゃんごめん。先生、これは、さっきの体育館からの帰りの廊下での発言です」

「ついさっきじゃないか。何があったんだ」

「もういいって!」

 ヨシミちゃんが声を荒げる。けれど、のりんは構わず説明を始めた。

「山浦だけがいなかったから、人体模型を落としたのが山浦じゃね?って話になったら、ヨシミが言ったんす。ホントに死ねば良かったって」

 嘘…それは酷い。

「そしたら埋田さんが来て、ヨシミにビンタして」

 サエさん、すごい。

「本当か埋田」

「言いたくありません」

「しただろうがよ!」

 また教室は静寂に覆われる。ヨシミちゃんのこともサエさんのことも大好きだから、ふたりが言い争うところは見たくない。先生は咳払いをして、話を元に戻そうとした。

「それでだな」

「ねえ先生、この書き込みした人は、あの場で、会話が聞こえる位置にいた人ですよね。私は離れたところ歩いていたから、埋田さんの言ったことしか聞こえなかったです」

 橋本さんが、冷静な意見を述べた。そっか、標的にされたのは、ヨシミちゃんの問題発言を聞いていてそれを書き込んだからだ。それを突き止めれば、殺されてしまうことを防げるかもしれない。

「じゃあ、その時、田口の周りに誰がいたか、誰か覚えてるか?」

「あたし、つだまるやまち

 のりんが言った。

「私と、細田さんもいました」

 ジンさんも言う。

「私とさっちんはいたし、他にも何人か歩いてたよ」

 キミちゃんが言うと、新藤さんが面白く返した。

「私覚えてねーけど」

「おめーはパンのこと考えてたからだろ!」

 あのふたりの掛け合いのお陰で、張り詰めた空気が少し和んだような気がした。

「他にこの会話を聞いてたっていう者は?」

 三条先生がみんなに尋ねると、サエさんだけが手を挙げた。今、名前の上がった人たちの誰かが、ネットに酷いこと書き込んだってことだとすると、どうしても信じられないというか、信じたくないなと思った。

「せんせーさー、最後の書き込みしたやつを特定しないといけないんじゃないの?」

 和泉ちゃんがいまいちピンときていないようで尋ねると、橋本さんが優しく解説してあげた。

「それが難しいから、狙われそうな方を特定した方が防げるってことじゃない?」

「ああ、そうだ。だから今、田口の発言を聞いていた者を探してるんだ」

 先生がそう言うと、新藤さんが物騒なことを言った。

「えーじゃあジンさんが殺されるかもしれないってこと?」

「嫌っ!」

 ノリカちんが悲鳴に近い声を上げた。そして赤い顔をして俯いている。私は3時間目の間に、ひとりで教室へ戻ってきた彼女の行動を思い返して、ひょっとしてジンさんのことが…と邪推してしまった。

「好き勝手に発言するなー。いまこうやって全員集めているからそんなことはさせない」

「山浦が殺しに来るんでしょー?」

「黙れ!」

 さっきから和泉ちゃんの発言はちょっと酷いなと思っていたから、三条先生が叱ってくれてほっとした。たまきちゃんのことを悪く言われるのは悲しい。

「…悪い。ちょっと先生も初めての事態で焦ってる」

 先生が疲れたように言う。つぐちゃんが泣いているように見える。本当にたまきちゃんはどうしているんだろうかと思う。1時間目に私が机に突っ伏してまどろんでいた時に、ふいに声を掛けてきたのは何て言っていたんだろう。語尾の「…からね」しか分からなかったけれど、その表情は強い決意を秘めたような顔をしていた。

「三条先生。この、殺害予告をした人物は、郷さんも殺したって事は考えられないんですか?」

 委員長が尋ねて、ドキッとした。

「郷は自殺なんだ」

「何故そう言い切れるんですか?」

 先生はうんざりした様子で答えた。

「理由がない」

「理由なら、終業式の前の日に、郷さんのヘアピンがなくなる騒ぎがあったじゃないですか」

 サエさんがそう言って、そうだったと思い出した。

「何それ。そんな話、初めて聞いた」

「えっ、ヘアピンって…何? どゆこと?」

 委員長と岡崎さんが次々に尋ねる。やまちーがたどたどしく説明をした。

「終業式の前の日のね、4時間目の体育の後、サトミちゃんがね、ヘアピンがなくなったってパニックになったの」

 なんだか申し訳ない思いがする。やまちーの言うとおりで、でもそれには私の意図もあって、それを明かすことができないもどかしさ…。

「初めて聞いたんだけど。えっ、みんな知ってたん!?」

「私も知らなかった」

 岡崎さんと月山さんが言う。彼女たちは写真部だから、体育のあとすぐに部室へ行ってしまったから、あの時いなかったんだ。

「その時教室に残ってた者だけが知っていることだ」

「ちょっとワタシも知らないんだけど!」

 ヨシミちゃんが声を上げる。

「あのね、サトミちゃんが、あの日休んでたヨシミちゃんには黙っててって、何回も言うから、みんな言えなかったんだよ」

 やまちーが恐る恐る言った。それも本当だ。

「じゃあ、郷さんそれが理由で自殺したわけ!? 盗まれたってこと?」

 岡崎さんが驚いたように言う。結果的に誰かを騙していたみたいな形になってしまって、申し訳ないことをしたなと思った。だけどそれには理由があったんだ。

「落ち着けって。みんなも知ってるように、次の日の朝に大和が、郷を発見して俺に知らせてくれた。それで警察を呼んで遺体を調べたら、制服のポケットにヘアピンが入っていたのが分かったんだ。それは葬式の時に、田口にも確認してもらったよな?」

 えっ。ポケットに入っていたって…そんなはずはない。何度も確認したし、つだまるちゃんから言われて更に確認したりもしたんだ。ヘアピンがなくなったのは間違いないんだ。おかしい。何かがおかしい。

「え。っていうことは、盗まれてなかったってことですか?」

 もじゃが言った。

「だからな、みんなに面談で話を聞いたけれど、いじめがあったわけじゃない。郷の遺書が残っているわけでもないから理由は分からないけれど、ヘアピンを盗まれたのが理由じゃないってことは、確かだ。ご家庭の事情のことまでは踏み込めないけれど、それが理由なんじゃないのか」

 ヘアピンがなくなってショックだった…というのを装っていた。それが本当のところなんだけど、ヘアピンがなくなったのは本当なんだ。どこかでボタンが掛け違っている。どこで…?

「せんせーこのホームルームいつ終わる? もう腹がぺっこぺこなんだけど!」

 新藤さんが空腹を訴える。

「もうちょっと我慢しろ。まだ5時間目の最初だろ」

「もーむりー」

 そう言うと新藤さんは机に突っ伏してしまった。

「みんな協力してくれ。そしたら早く終われる。他に何か、思い当たることはないか?」

「サトミのこと?」

 のりんが尋ねた。

「いや、書き込みのことだ」

 そっか、殺害予告のことはまだ何も解決していない。

「先生。あの」

 つだまるちゃんが口を開いた。

「なんだ、津田?」

「さっき、体育館の裏で、猫が死んでて…」

「それ何の関係があんだよ」

 和泉ちゃんがキツめに当たった。

「あたしも一緒だったけど、猫が殺されてたっぽい」

 のりんがつだまるちゃんに味方した。

「どうして分かるの?」

 委員長が尋ねると、つだまるちゃんが泣きそうな声で言った。

「誰かが猫を拾ってきて、体育館の裏に段ボールで家を作って飼いだしたの。で、みんなで餌をやったりしてたから」

「ちょっとそれ顧問の先生が許可したの?」

「今そんな話じゃないっしょ委員長。その猫が、変な物食べさせられて死んでたのを、さっきあたしとつだまるで見つけたの」

 のりんが委員長をたしなめながら説明した。そんな酷いことがあったんだ。だけど、シリアルキラーって最初は動物を手に掛けるんじゃなかったっけ。俄然、掲示板の書き込みの不穏さが増してくる。

「それはいつの話だ?」

「昼休みの前」

「昨日の放課後は猫ちゃん元気にしてたのに…」

 のりんは気丈に答えたけれど、つだまるちゃんは弱々しく言った。

「だからさあ、猫と殺害予告と何の関係が」

 和泉ちゃんが分からないらしく言うと、橋本さんがまた説明してあげた。

「あのね、猫を殺した人間って、だいたい次に人間を狙うの」

「もうやめてよぉぉぉぉ」

 つぐちゃんが大声を上げて、両耳を両手で塞いでしまった。自衛策として、彼女には理に適っているなと思った。

「待って、体育館の裏?」

 今度は曽根さんがつだまるちゃんに尋ねた。

「うん、バスケ部の部室の裏」

 先生に向き直った曽根さんが言う。

「…あの、何の確証もない、ただ見かけただけの情報でもいいんですか?」

「それは聞いて判断する」

「朝に、体育館裏から伊村さんが一人で歩いてくるの見たんです」

 伊村さんか…さっき細田さんを連れて保健室へ行ったけれど、そういえばまだ戻ってこないなと思った。

「伊村は弓道部だろう? 部室から出てきたんじゃないのか?」

「だって私、弓道部の部室から出てきて見かけたんです」

 猫の殺されていた体育館裏から伊村さんが出てきたって、それはもう怪しすぎる。じゃあ、殺害予告をしたのも伊村さんなのだろうか。

「先生さー。この写真、おかしくない?」

 岡崎さんが声を上げる。さっきから、持っていたカメラの写真を見返していたらしい。

「何か撮ってあるのか?」

「私、卒業式前日の、体育の授業の前に、適当に写真撮ってたんだけど」

 そう言うと岡崎さんは立ち上がって教卓まで歩いていった。ヨシミちゃんとサエさんもそれを見に行く。私も席を立ってそれを見に行った。

「…なんだこれは」

 写真を見た三条先生がぽつりと言った。写真には、私の机の前に立っているナオちゃんが写っていた。

「だから体育の前だって。ナオがヘアピンをポケットに入れる所が写ってるんだけど、これサトミちゃんの机なんだよ。私も今朝、栗原がこの写真をパソコンに表示するまで気がつかなかった」

「ナオがやってんじゃん!」

 ヨシミちゃんが大声で言った。

「盗んでたんだ!」

 サエさんも声を上げた。私はただ黙って写真を覗き込んで見つめている。何てことだ…ナオちゃんがヘアピンを盗んでいただなんて。

「…いや、でも、首吊った時のポケットには、入っていたんだぞ? 何かの間違いだろ」

 三条先生が疑問を呈する。そうだ、何かおかしい。

「先生。郷さんの遺体の第一発見者なんですけれど、大和さんだけじゃないでしょう」

 橋本さんが何か知っているみたいに言った。

「…何を言ってるんだ?」

 聞き返した先生には答えず、橋本さんは後ろを向いてやまちーに尋ねた。

「ねえ、そうなんでしょ?」

 やまちーは一瞬の間を置いて、躊躇いがちに話し始めた。

「…ハァ。そう。わたし、終業式の朝、下駄箱で出会ったナオと一緒に教室に入ったんで、ふたりでサトミちゃんを見つけたんです」

「おい! なんでそんな大事なこと黙ってたんだ!」

 先生が怒ると、ヨシミちゃんがそれに噛みつく。

「あんただってヘアピンのこと黙ってただろ!」

「うるせえっ!」

 私の起こしたことでそんな争わないで。私は終業式の早朝に自殺したから、その後のことは知らない。ただ気がついたら教室に座っていて、それは数日後のことだったらしい。

「先生。怒鳴るのはやめてください。それで大和さん、だったら終業式の朝、あなたが先生に知らせに行っている間、細田さんはどうしてたの?」

 冷静じゃない先生に代わって、委員長がやまちーに尋ねた。

「え、考えたことなかったけど…。なんか、わたしの手柄にしたらいいじゃんって言うから、わたしが先生に知らせに行って、先生と戻ってきた後に、初めて見る感じでナオが教室に入ってきた」

「…つまり、大和さんが先生に知らせに行っている間に、細田さんは前の日に盗んだヘアピンを、郷さんの遺体のポケットに戻すことだって出来たわけですよね?」

 橋本さんが推理を披露して、すべてが納得いった。キッカケも、ボタンを掛け違えさせたのも、ナオちゃんの仕業だったんだ。

「じゃーナオがサトミ殺したってことじゃん!」

 和泉ちゃんが間違ったことを言う。そうじゃないの。

「さっきからうるせーんだよおめーはよ! じゃあなんでワタシがサトミを殺したって噂をあんたが流したことになってんだよ!」

 ヨシミちゃんが今度は和泉ちゃんに噛みつく。私のことなんかで、ケンカなんてしないでよ。

「だからそれは、ナオがわたしのせいにしたんだって」

「証拠があんのかよ!」

「あの、証拠なら、保存しております」

 荘司さんが声を上げた。

「…は? なんであんたが出てくんだよ」

「す、すみませぬ」

 荘司さんはヨシミちゃんの勢いに怯んでしまう。

「証拠ってなに? 教えてよ」

 和泉ちゃんが助け船を出して、荘司さんはたどたどしく説明を始めた。

「は。ええと、今日の1時間目のあとに、拙者、雪隠へ赴いたのですが…」

「さっちん?」

「パン食いてー!」

「うるさい! そんで?」

 ソフトボール部のふたりの掛け合いも、必死の和泉ちゃんに一喝されてしまった。

「ええと、個室の中で、たまたま、たまたまなんですが、私、音声を録音できるアプリを作動させまして…」

「ちょっとコイツ何言ってるかわかんねーんだけど」

 ヨシミちゃんは話の意図が分からずイライラしている。

「誰かの会話を録音したってこと?」

「さよう。これをお聞きください」

 荘司さんが操作したスマホから、興奮したようなナオちゃんの喋りが教室へ響き渡った。

「サトミちゃんのことでしょー?」

 ドキッとした。今日、なんで私の名前が出るんだろう。

「なんかいずみちゃんが言うには、ヨシミが犯人とかって噂があるらしいよ? 怖くない? 信じられ無くない?」

「これだ! これだよ、わたしが朝、ナオに変な質問されて、答えたんだ」

 和泉ちゃんは決定的な証拠に喜んでいる。

「おいメガネてめー、これ、ホントだろうな?」

 ヨシミちゃんに詰め寄られて、荘司さんは慌てながら答えた。

「さ、さすがに細田氏の音声合成するアプリはありませぬ」

 ヨシミちゃんはそれ以上の追及を諦めたらしい。

「ナオがイズミンのせいにしようとしてたのは分かったよ。でも、なんでそんなことしたんだ?」

 のりんが疑問を呈した。

「細田さんが、自分への疑いを反らしたかったんじゃ、ない…かな?」

 橋本さんが言う。彼女が言うと、すごく説得力を持って感じられる。やっぱり頭の良い人は違うなって思う。

「っていうことは、サトミちゃんが死んだのは、細田のせい?」

 サエさんが言う。いや、そうではないんだけれど…ああ、どうしたら訂正できるんだろう。

「静かに。仮にそうだとしよう。俺がいま問題にしているのは、裏サイトで殺害予告がされたことだ」

 先生はまた殺害予告へと話を戻す。そうだ、差し迫ったその問題は、犯人と目されるのが伊村さんらしいというところまでしか解明できていない。誰が狙われているのか、それが重要だ。

先生、この、ヨシミについて書き込んだのって、ナオなんじゃない?」

 つだまるちゃんがスマホを見ながら言った。

「ありうる。つーかさー、このログ読み返してると、明らかにナオの書き込みって、分かるよね」

 和泉ちゃんが同調する。

「あたし何が書いてあんのかわかんねーから説明してくんねー?」

 のりんが尋ねると、和泉ちゃんはスマホを操作しながら解説した。

「ログを見ると、サトミの自殺の後から、やたらそれを茶化すような書き込みがあって、それがナオだと仮定すると、異常にしっくりくる」

 それを聞いていた橋本さんが、独り言のように言った。

「じゃあ、最後の書き込みの特定したっていうのは、細田さんだと特定したってこと…」

「狙われるのは、細田ってことか!」

 先生が大声で言った。ナオちゃんって、伊村さんと一緒に出て行った。危険だよ。

「先生! 伊村さんが細田さんを保健室に連れて行って、どれくらい経ちますか!」

 委員長が慌てて先生に尋ねて、その答えを待たずに橋本さんとジンさん、ノリカちんが教室を飛び出していった。すぐに、のりんとやまちー、和泉ちゃんもその後を追いかけて教室を出て行く。

「堀川! みんなを教室から出すな!」

 委員長にそう言いつけると、三条先生までもが教室を出て行った。ナオちゃん、大丈夫だろうか。私もヨシミちゃんもサエさんも自分の席へ戻って、委員長は先生の代わりに教卓へ立った。すぐに新藤さんが再び昼食について問い質す。

「委員長! もう昼にしよう!」

「だめです! みんなを教室から出さないように言われたので」

「じゃあ何するの」

 キミちゃんもイライラしたように言った。

「先生が戻るのを待ちます」

「もうむり。今からパン買いに行く!」

 新藤さんは決意したように言った。

「だめ!」

「私以外にこの空腹を救える者はありえない!」

 新藤さんが席を立つと、キミちゃんもそれに続く。

「委員長、これもう止まらないよ。諦めて」

「お願いだから!」

「パンを求める者は私について来いっ!」

 新藤さんの呼びかけに、もじゃ、岡崎さん、曽根さんの3人が席を立って、5人はすたすたと廊下へ歩いていった。

「どうしてみんな私の言うこと聞いてくれないのよぉ…」

 教卓では委員長が悔しそうに言った。

「いいんちょう、大丈夫。まだ大勢残ってるよ」

 つぐちゃんが優しい声を掛ける。

「パン買ったら戻ってくるでしょ」

 ヨシミちゃんもそう諭す。

「部長ー、みんなでお弁当食べよー」

 タイラーが机にお弁当を置いて言った。

「さんせー!」

 つだまるちゃんが嬉しそうに言う。

「それは」

「部長、いま最善の指示は何?」

 橘さんに尋ねられ、少し考えた委員長はついに折れた。

「それじゃあ…みんな…お弁当にしましょうか」

 みんな、良かったね。なんだか私まで嬉しい気持ちになってしまった。少しだけ、教室の緊張が緩んだ気がした。教室を出て行った人たちがいつ戻ってくるか分からないから、みんな自分の席でひとりでお弁当を食べるらしい。つだまるちゃんだけが、もじゃの席へやって来て、隣のヨシミちゃんと一緒に食べようとしている。私も席を立って、側まで歩いていった。ヨシミちゃんはお昼を抜くつもりなのか、机の上に何もなかった。

「結局さ、ナオの自業自得よね」

 お弁当を食べ始めたつだまるちゃんに、ヨシミちゃんが言った。

「あー。え?」

 つだまるちゃんは反応に困っている様子だ。

「サトミのヘアピン盗んで知らん顔して、次の日にサトミが自殺したのにビビって、こっそりヘアピン戻したってことでしょ?」

「うん」

 まあ、そういうことになるなあと思う。

「そんで自分への疑いを晴らそうとあれこれ工作してさ、全部バレて今殺されそうだなんてさ」

「まあね」

 つだまるちゃんは答えにくそうに、お弁当を食べ続けている。このままじゃヨシミちゃんはもっとエスカレートしてしまう。どうしようと周りを見ると、ひとりでお弁当を食べている井上さんが視界に入った。私のことをまだ唯一認識できている井上さんなら、もしかして…。私は井上さんの前に立った。

「なによりワタシを犯人に仕立てようとしたのが許せない」

「うん、それは酷いよね」

 つだまるちゃんはそう同意するとお茶を飲んだ。井上さんは、目の前に私が立っていることに気がついて、顔を上げた。不思議そうにこちらを見つめている。

「サトミが可哀想だよ。死んでまで利用されてさ」

 そっか、そういう見方も出来るんだなと思う。私が利用した面もあったのに。つだまるちゃんはただ「うん」と返事をした。

「案外、サトミもナオに殺されたんじゃないの?」

 ヨシミちゃんがそう言って、それは違うと言わなきゃってまた思った。井上さんに伝える? でも、そんなの時間が掛かる。どうしよう。

「それは…さすがに」

 つだまるちゃんは答えにくそうにしている。もしかして、井上さんならもしかして…。

「ごめんね」

 私は井上さんの身体へ、頭から飛び込んだ。

「えっ、ちょっと待っ」

 思った通り、井上さんの身体に吸い込まれて、五感へ神経が行き渡っていくような感じを覚えた。つぐちゃんが何か呼びかけている声がする。もう少し。

「まこちん? まこちん!」

 はっきりとつぐちゃんの声が聞こえた。私は顔を上げて声を出した。

「ちがうちがう! ちがうの!」

「まこ…ちん?」

 左を向くと、きょとんとした顔でつぐちゃんがこちらを見ている。

「つぐちゃん、私、郷。郷義弓。ちょっと信じられないだろうけど、サトミが井上さんの体を借りてるの」

 喋りながら、自分の声じゃないのが不思議な感じがする。

「井上テメー悪い冗談やめろよ!」

 右側から凄い声でヨシミちゃんが声を上げる。

「ヨシミちゃん、まこちんはそんな冗談言うコじゃないよ?」

 つぐちゃんがヨシミちゃんに反論した。

「ありがと、つぐちゃん。私、死んでた。死んでたんだけど、それに気づかないまま、この教室にいたんだ」

「ほんとに…あなた、サトミなの?」

 後ろの方からサエさんの声がする。私は振り向いて声を掛ける。

「サエさん! 今はただ信じて欲しい。私、みんなに伝えたいことがあるの」

「井上さん? 郷さん?」

「今はサトミでも郷でもいいよ、委員長。私、ナオちゃんが私を殺したことにされちゃってるの、どうしても訂正したくって、いまこうして井上さんの体を借りたんだ」

 私は席を立って後ろを向いた。

「ほんとに…サトミなの? なんで井上なの…?」

 ヨシミちゃんが戸惑っている。

「私ね、自分が死んだことに気がついてもいなかったんだけど、それに気がつくまでずっと、井上さんだけが私のことを見えてたの。霊感が強いのかな? だから、試してみたら、乗り移れたんだ」

「まこちん…じゃないの? サトミちゃん?」

 つぐちゃんも席を立って近づいてきた。私はつぐちゃんに近寄った。

「そうなの、つぐちゃん。久しぶり!」

「サトミちゃんー!」

 つぐちゃんと抱き合う。つぐちゃんは涙を流しているらしい。

「サトミ! 伝えたいこと…って、なに?」

 サエさんが言う。そうだ、大事なことなんだ。私はつぐちゃんの体を優しく離し、サエさんの方へ向き直った。

「そう…。あのね、私はナオちゃんに殺されたわけじゃないの。それだけ言わないと…って思って」

「なら、なんで!?」

 つだまるちゃんが声を上げると、ヨシミちゃんがそれを上回る音量で言った。

「なんでワタシに断りなく死んじゃったんだよ!」

 ヨシミちゃんの声は震えている。

「ごめんねヨシミちゃん。私、実はみんなと同級生じゃないんだ…」

「はぁっ?」

 つだまるちゃんが素っ頓狂な声を上げた。

「あの…どういうことか、説明してもらえます?」

 橘さんが説明を求める。

「もちろん。そうさせて」

「郷さん…。あなた、同級生じゃないっていったら…13年前の…?」

 委員長が言った。この人には敵わないなと思う。

「さすが委員長、その通り。私はね、13年前、2学期の終業式にこの教室で自殺したの」

「あ…この学校の、黒歴史ですな!」

 荘司さんが声を上げる。

「何よそれ。知らないんだけど」

 ヨシミちゃんは知らなかったみたいだ。

「たしか13年前にこの学校の生徒が自殺して、それ以来この学校の人気がなくなったって噂の…」

 月山さんがそう言って、なんだかまた申し訳ない気持ちになった。

「はは…そういうことに…なるのかな」

「もうつまんねー冗談やめろよ井上!」

 ヨシミちゃんがまた大きな声を出す。

「ヨシミちゃん、サトミちゃんだよ? わたし、わかるの」

 つぐちゃんが庇ってくれる。優しい。嬉しいな。

「わかんねえよ! なんなんだよ! なんでサトミが死んじゃうんだよ!」

 ヨシミちゃんの瞳が潤んでいるように見える。

「ヨシミちゃん、ごめん。私あんまり時間がないみたいだから、とにかく説明するね」

「郷さん。13年前に亡くなったあなたが…なぜこのクラスに…?」

 委員長が当然の疑問をぶつけてくる。

「うん…。私ね、死んでからずっと、ずっとここの教室にいたんだ」

「えっ。おうちは?」

 タイラーが驚いて言った。

「ねぇ、不思議でしょ? 朝になるとここにいて、そのままここから出られないの…」

「嘘よ! だって一緒に帰ったりしたじゃない」

 サエさんが立ち上がって言った。

「うん、それはね、私がみんなに魔法? みたいなのを掛けちゃってたんだんだと思う」

「どんな妖術なのですか!」

「知りたいです!」

 荘司さんと川部さんが興奮して尋ねてくる。でも今それを丁寧に説明してあげることが出来ない。

「掛けちゃってた…っていうのは?」

 サエさんが説明を求めてきた。

「私も仕組みはよく分かんないんだけど…。説明が難しいな…。えっと、私が普通にみんなと毎日を送ってるっていう風に思うような、そういう魔法がみんなに掛かっていたの」

「じゃあ、意図せず、自然に…ってこと?」

 委員長が言う。

「…うん」

 私だって、そうしたくてしたわけじゃないんだ。そういう風になっていたんだ。

「なんでそれが、私たちだったのかしら?」

 更に委員長が尋ねる。ううん、このクラスだけじゃない。毎年毎年、繰り返し。でも、そんなの情けなくて惨めで、言えないよ。私はただ頷くしかできない。

「…うん」

「あなた、13年前に亡くなったのよね?」

 問い続ける委員長に代わって、橘さんが尋ねてきた。

「郷さん、あなたまさか、毎年…?」

 私は顔を上げて言った。

「そう。私が死んで、次の学年から、毎年。毎年4月の最初からこの教室にいて、2学期の終業式に自殺してたんだ」

「次の学年って…1年生が2年生に上がったときに、そのクラスに加わるってこと? 気づくでしょフツー?」

 つだまるちゃんが、当然の反応を見せる。

「それができちゃう…魔法?」

 サエさんが言う。

「うん」

「なんでそんなことを」

 つだまるちゃんがまた尋ねる。

「私が知りたいくらいなんだけど…そういう風になってたの。そんな仕組みの中で、私は毎年4月から12月まで、その年の2年生なの」

「なら、私たちは、幽霊の郷さんと一緒に、2学期まで夢を見てたっていう感じ?」

 月山さんが尋ねてきて、そういう見方もあるんだなって感心した。

「綺麗に言うとね」

 私はやっと少し気持ちに余裕が広がった。

「じゃあ、サトミはワタシと友だちでも何でもないってことかよ!」

「ヨシミちゃん、それは違う」

「どこが違うんだよ! 全部魔法だったんだろ! 騙されてたんだろ!」

 胸が張り裂けそうだ。

「それは違う。違うよ。たしかに私、みんなを騙してたのかもしれない…。でも、みんなと過ごした去年の私。それは紛れもなく本物の私だよ」

「だったら、なんで死んじゃうのよ!」

 今度はサエさんも強く言う。

「サエさん…。私だって、死にたくなかった。死にたくなかったんだよ! だって、だって、私、このクラスのこと、大好きだったんだから!」

 誰かがすすり泣く音がする。私も涙腺が危ない。

「じゃあ、自殺してしまうことは変えられなかった…ってことね」

 委員長が言って、私は頷いた。

「うん」

「っていうことは、細田さんがヘアピンを隠したっていうのは…」

 橘さんが尋ねてきて、そう、その話をしなくちゃと思った。

「偶然。偶然なんだけど…ちょっと利用させてもらっちゃった」

「どうやって」

 つだまるちゃんが聞く。

「終業式の前の日には、次の日の朝に自分が自殺するってことは分かってた。だから、どうしたら自然かなってずっと考えてたら、私のヘアピンがなくなった。だから、ちょっと過剰に騒いでみちゃった」

「な…なんだよ! すげー焦ったんだぞ!」

 つだまるちゃんが怒り泣きのような表情で言った。

「ごめんね、つだまるちゃん」

「あの…伊村さんのことは?」

 また橘さんが聞く。

「それは本当に、ぜんぜん知らないの。ヘアピンを盗んだのがナオちゃんだったってことも、知らなかった。だから…私の自殺がナオちゃんのせいで、それを理由にナオちゃんが狙われるんだとしたら…って。それだけは違うんだって言わないとって、思ったんだ」

 そう言い終えると、遠くで悲鳴が聞こえた。ナオちゃんだろうか。先生たちは間に合わなかったんだろうか。

「ちょっと待ってタイラー!」

 橘さんとタイラーが慌てて教室を飛び出していく。

「あなたたちまで!」

 委員長が声を上げる。

「ほっとこう、委員長」

 つだまるちゃんが諦めたように言う。

「どうしよう…私のせいで…」

 私のせいでどんどん騒ぎが酷くなっていく。

「あんなに沢山行ったんだから、大丈夫だよー」

 つぐちゃんが優しい言葉をかけてくれる。

「でも…」

 急に両腕をがしっと掴まれて、見ればヨシミちゃんだった。

「サトミ! なんで死んじゃったんだよ!!」

「ヨシミちゃん、私のためでなんか、泣かないで」

「泣いちゃ悪いかよ! 笑えよ!」

「ううん。私のために泣いてくれてるんだったら、本当に嬉しいし、本当にごめんなさい」

「ワタシだけじゃないだろ…」

 そう言われて周りを見ると、つだまるちゃんも、サエさんも、つぐちゃんも、他にも何人か泣いているのが見えた。

「ごめんね、みんな…」

「例え13年前のサトミがかけた魔法なんだとしても、私たちはあなたの友だちなんだよ」

 サエさんにそう言われて、遂に私も涙が流れた。私の身体じゃない、井上さんの身体で、泣いてしまって悪いなあと思う。ヨシミちゃんは何も言わずに私を抱きしめた。

「うええええー、ヘアピン見つからなかったとき、酷いこと言って悪かったよおお」

 そう泣きながら、つだまるちゃんも後ろから抱きついてきた。

「ありがとう。気にしてないよ」

 つだまるちゃんにそう言って、心残りがひとつ消えたなって思った。

「なんだかね、長い長い夢から、醒めたみたいな感じがするの」

 重い重力から解き放たれたような、空中で浮かび上がりそうな感覚。

「どういうこと?」

 委員長が尋ねる。

「私、去年までは、年末に自殺して、だけど年が明けたらもう魔法が解けて、誰も私のことなんて覚えていない中、一人でずっと教室の中に座ってる…そんな感じだったんだ。それなのに、1月の半ばになっても、私はこんなにもみんなの中にいられたんだよ。それって、奇跡」

「忘れるもんか!」

「忘れられないよ」

 ヨシミちゃんとサエさんが力強く言ってくれる。

「…うん。そうだったら、本当に嬉しいな…。たぶんね、こうやって最後にみんなの前に出てくることができたのも、奇跡なんだと思うんだけど…」

「なんだよ」

 後ろからつだまるちゃんが尋ねる。

「たぶん…これが最後の時なんだ…」

「最後だなんて!」

「そんなこと言うなよ!」

「みんな、ありがとう。本当に、ありがとう。今ここにいないみんなも、ありがとう。みんな、大好き。私、このクラスの一員になれて本当に良かった。ありがとう!」

 心が満たされている。こんな気分は初めてだ。

「行ってしまうの?」

 委員長が尋ねる。

「重りが取れたみたいな感じがするの。体が浮かんでいくような感じがしてて…」

「行くなよ! 友だちだろ!」

「ありがとうヨシミちゃん。思いっきり、やりたいことをやってね!」

「行かないで!」

「サエさん…。ごめんね。私、最後にもう一人にだけ、お別れを言いに行かなくっちゃ。もう行くね。みんな、ありがとう。またね!」

 段々とぼんやりとしてくる。楽しいクラスだったなあって思う。私は目を閉じて力を抜く。暗闇に井上さんが浮かんでいるのが見える。

「井上さん、どうもありがとう!」

「なにが?」

 井上さんに尋ねられたけど、色んな思いが色とりどりに広がって、何を言っていいのか分からなくなる。

「郷さん、どうしたの?」

 井上さんは重ねて尋ねた。

「私ね、幸せだった」

 最後にこう思えて、良かった。

「えっ」

 井上さんは意味が分からないような表情をしている。

「バイバイ!」

「待って」

 私は井上さんに別れを告げると、一気に暗闇をすり抜けた。そこはずっと出たかった廊下。そして窓を突き抜けて、中庭の上に浮かんでいる私。見下ろすと、バラバラになっている人体模型の破片を拾い集めている先生たちの姿が見えた。黒いロングヘアーのかつら。たまきちゃん? 彼女はどこへ行ったんだろう。
 自在に空を飛べる。壁を突き抜ける。生きていたときにこんなことが出来たならな。ずっとずっと、私を呼ぶ声が聞こえている。待って。もう少しだけ。

 もう、学校にはいないらしい。人体模型を落としたのがたまきちゃんだったのなら、そうしてしまうのも分かる気はする。学校を辞めてしまうのか。

「私さあ、来年にイタリア留学するんだ」

 前に、私がイギリスへ留学したいんだと夢を語ったら、たまきちゃんはそう言った。

「そしたらさ、中間地点のパリで会えるね!」

 なんて、夢みたいなことを言って笑ったんだ。そうだ、年明けだって言ってた。たまきちゃん、お別れを言えなかったな。
 見下ろすたちばな市の街並み。あれから何年経ったんだろう。随分変わったような気がする。私を呼ぶ声が強くなる。待って。もう少しだけ。

 学校から、私の暮らした団地へ飛ぶ。どれだけのスピードが出ているんだろう。丘の上に建つ団地は、私の記憶よりも随分色褪せていた。B棟の4階、2号室。壁でも窓でもすっと通り抜けられるんだけど、玄関のドアを通り抜けて中へ入ることにした。表札は「郷」となっていて、まだ両親が暮らしていることに複雑な思いがする。薄緑色の重たい鉄のドアを通り抜けると、玄関にはお母さんのらしい靴とサンダルが並んでいて、さらに私のじゃない誰かのローファーがあった。私は一人っ子だし、誰のだろうと思った。
 廊下からリビングへ。懐かしい。リビングの家具の配置は何も変わっていない。お母さんが座っている。だいぶ老けたなって思う。私の部屋へ通じるふすまが開いていて、中に誰か座っている。金髪で、ショートカットで、学校のジャージを着ていて…えっ、たまきちゃん…どうして。彼女の座っている先には仏壇があって、あっ、そうか、私のか。じゃあ、たまきちゃんは、私に会いに来てくれたんだ。

「来たよ。友だちだからね」

 たまきちゃんは仏壇に向かってそう言った。ありがとう。口にはしたけれど、勿論たまきちゃんには聞こえていない。

「行ってくるね」

 たまきちゃんはそう言った。爽やかな表情をしていた。

「行ってらっしゃい」

 私はそう返した。イタリアか。頑張ってね。応援してるよ。たまきちゃんは立ち上がって、リビングへ行ってお母さんと話をしている。私を呼ぶ声。待って。もうだめか。


「気は、済んだかね?」

 一瞬で、真っ白な場所へ移動していた。何もないところへ私は浮かんでいる。私は前にもここへ来たことがある。

「君は、死した時にこう願った。皆の記憶から消えるまでに、ひとつだけ、果たせなかったことを果たしたい、と」

「はい」

 そうだ。いま全部思い出した。最初は上手くいかなかったんだ。少しずつ、やり方を変えてみたら、段々と惜しいところまでいけるようになった。それで今年は思い切って、クラスのリーダーと幼馴染みになってみようと思ったんだ。

「その願いを、覚えているかね?」

「はい」

「その願いは、果たせたかね?」

 今なら、胸を張って言える。もう思い残すことは何もない。

「はい!」

「よろしい。では、今一度、その願いを述べてみよ。それで、すべてが完結だ」

 ありがとう、みんな。そして、さようなら。私は大きく息を吸い込むと、ありったけの声で叫んだ。

「私は、本当の友だちが欲しかった!」

 穏やかな気持ちが満ち満ちている。長かったけれど、やっと叶ったよ。

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