「いまからホームルームを始める」

　三条先生が教卓から声を上げて臨時のホームルームが始まった。早速、食物と空腹しか頭にない新藤五月が噛みついた。

「せんせー昼ご飯は？」

「このあと５時間目をその時間にする」

「ハセベのおばちゃんが帰っちゃうよ！」

「ハセベさんにはさっき５時間目が終わるまで待っていてくれるよう頼んでおいたから安心しろ」

「マジか～。じゃあ５分でおわろ！」

「そうはいかない。君たちに聞きたいことがあるからだ」

　おや。てっきり人体模型落下事件について、この場に不在の山浦環について糾弾する流れになるのかと思っていたが。

「こないだ面談やったじゃないっすかー」

　和泉美兼が不満げに言う。

「年末の件はもういいんだ」

「いいってどういうことですか」

　埋田寿惠は郷義弓がぞんざいに扱われた事に不服のようだ。

「…えっとな、さっき人体模型が落ちてきたな」

　結局そこか。

「山浦が犯人ー？」

　和泉美兼が直撃させた。

「…まだ分からない」

　明確に否定しないあたりは三条先生も疑っているという事か。

「三条先生、でも、山浦さんだけいません」

「…そうか」

　委員長が山浦環の不在を確認した。

「山浦さん、面談のあと、怒って帰ってきましたけど」

　埋田寿惠は山浦環の弁護も担当しなければいけないとは大忙しだな。

「えっとな、山浦の件はあとで説明するから、まず俺の話を聞いてくれ。君たちの中で、裏サイトってものを知ってるのは何人くらいいる？」

　はは。そこに気がついていたか。ほんの少し三条先生の事を見直した。

「何それー」

　新藤五月が興味なさそうに言った。

「匿名で誰でも書き込めるネットの掲示板のことなんだが、このクラスの掲示板もあってだな」

「先生」

　右隣に座っている細田直己が弱々しげに言った。

「なんだ」

「もう、郷さんのことがあって、さっきの人体模型落とすような酷いことがあって、これ以上、刺激の強いこと、やめてください…」

　そういう性格じゃないだろう。やれやれ。細田劇場の何幕目だこれは。

「いや、なんというか」

「先生、先生、ほんと、ワタシ、つらい…。さっきから気持ち悪くて吐きそうなんです」

　そう言うと細田直己は嘔吐する素振りを見せた。隣で吐瀉物を撒き散らされては敵わないから警戒して横を向いたけれど、どうも吐く演技だったらしい。随分手が込んでいるな。

「大丈夫か。ちょっと隣の席だから悪いけど、伊村な、細田を保健室まで連れて行ってくれないか」

「…わかりました」

　隣に座っているというだけで連帯責任を負わされるこの制度について思いを馳せる。今この時間の僕でなければ不愉快極まりない命令だったけれど、願ってもない好機だと嬉しくなった。僕は自分の左肩を下げて細田直己の右腕を回させると、ゴールテープを切って脱水症状に襲われ倒れそうになる走者へするように、甲斐甲斐しく支えながらゆっくり教室後方のドアから廊下へと出た。そのまま保健室へ向かって2階の廊下をゆったりとした歩みで進んでいく。他の学年もまだホームルームが始まったばかりだから、当然廊下を歩いている者もいない。昼過ぎの奇妙な静寂の中を細田直己に肩を貸して牛歩している。廊下の途中にある女子トイレの前まで来たところで細田直己が言った。

「ありがとう。もう大丈夫だから。教室に戻って？」

　逃がすもんか。楽しいのはこれからじゃないか。僕は申し出を拒否する。

「いや、ついて行くよ」

　細田直己はそれ以上何も言わず、黙ってまた保健室までの小旅行を続ける。僕は頭の中で今後の計画を組み立て始めた。保健室へ到着するまであと5分といったところか。そこで素直に保健室へ預けるわけにはいかない。そこから体育館裏まではおそらく普通に歩いて移動できる。
　次に教室で行われているホームルームについて思考する。議題は裏サイトで僕の書き込んだ殺害予告についてだろう。そこから犯人捜しあるいはターゲット探しが行われる。しかし当事者ふたりがその場にいないのだから難航を極めるはずだ。時間は充分あるだろう。やっと廊下の端へ辿り着いて、薄暗い階段を注意して降りていく。こんなところで怪我などなさいませぬよう、お嬢様。

「ほんとうにありがとう。でも、もうひとりで大丈夫だから」

　保健室の前へようやく辿り着くと、僕の肩から腕を外して細田直己は申し訳なさそうに言った。考えていることが手に取るように分かる奴だ。

「大丈夫なもんか。全部分かってるんだよ」

　僕は細田直己へ言い放った。

「えっと、何のことかな？」

「もうそういう演技は要らないよ。郷さんを殺したのだって、第一発見者を大和さんに仕立てて工作したのだって、裏サイトで暗躍してたのだって、全部分かってるんだ」

　細田直己の表情が一変する。

「…なんなのあんた」

　後ずさりする細田直己。

「ここじゃなんだから、誰も来ない所へ行こうよ」

　そう言うと僕は下駄箱へ向かって歩き出す。だが細田直己の足音はない。すぐに後ろを振り返って念押しした。

「来て、くれるよね？」

「わかったわよ」

　細田直己は不満げに言うとこちらへ歩き出した。それでいい。僕はまた下駄箱へと歩き出した。静かな廊下に上履きの足音だけが響いている。突き当たりに見える下駄箱は、窓から差し込む昼下がりの陽光が照らし出して一際明るく見える。心がグツグツと沸き立つのを感じる。猫を殺める前に感じたのと同じ感覚だ。誰もいなければ踊り歌ってしまいたいところだ。

「ちょっと、どこまで行くのよ」

　後ろから細田直己が声を掛ける。答える必要はない。下駄箱に着くと靴を履き替える。細田直己もそれに従う。下駄箱から外へ出ると北からの海風が強く吹いている。

「ねえ、あんた何が目的？　お金なら10万円までなら何とか払う」

「はあっ？　僕が金目的で君を強請るとでも思ったのか!?　舐められたもんだな！」

　実に不愉快だ。これだから金で何でも解決できると思っている奴は嫌いなんだ。僕は体育館裏へ向かって歩き出す。

「気持ち悪いのよあんた」

　後ろから精一杯の口撃を仕掛ける細田直己だけれどそんな些末なことに動じる僕ではない。暴れ馬のように昂ぶる気持ちを抑えつけるので忙しい。体育館を回り込むようにして裏側へ出る。側面には橘城のしっかりとした打込み接ぎの城壁がそびえている。僕は隙間のない整ったこの城壁を見ていると安堵する。数百年前の人間の叡智について感慨深い気持ちに浸れる。

「ふふっ。やっと着いた。そこの箱の中を見てごらんよ」

　朝と同じ場所へようやく着くと、僕は段ボールの方を指差して言った。細田直己は訝しげな表情で、恐る恐る段ボールの方へ近づいた。そこからはみ出すようにして倒れている獣の死骸に気がつくと声を上げた。

「ひ！」

　絶句して固まる細田直己に、僕は興奮を抑えつけながら言った。

「それは今朝、僕が殺したんだ。朝起きたときから、ゾクゾクして止まらなかったのに、果たしたらすっと、冷めてしまったんだ」

「何なのよあんたは！」

　強がってみせる細田直己だが、足が震えているようにも見える。

「もうね、猫じゃ満足できないんだよ」

「気持ち悪い」

　細田直己が侮蔑的に言い放ったが、全くだと思う。

「ほんとにね。同意するよ。否定しても否定しても、脳が命令するんだよ」

　さあ、そろそろショーダウンだ。僕は細田直己へ向かって歩を進める。

「動かないでよ！」

「君が動けないんじゃないか。はははっ」

　恐怖する動物へ沸き起こる嗜虐性というのは僕個人に備わった性なのか、それとも人類一般に備わった普遍の真理なのか、どちらだろうか。僕は歩みを続ける。

「君さあ、自分のこと、可愛いと思ってるだろう？」

「だったら何よ！」

　ちょっとは否定くらいしろよと思う。

「そういうの、滅っ茶苦茶にしてやりたくなるんだ」

「来ないで！」

　細田直己が言うが従う道理などない。

「誰も来ないよ。あの盆暗どもが僕の元へたどり着くまで、何ヶ月かかるやら」

　今頃教室では何をしているやら。僕と細田直己の関与へ辿り着けるとしたら橋本忠代、橘ひろ子、委員長くらいか。何にせよ間に合わないな。

「寄るなよ！」

　細田直己が虚勢を張っているが無視して僕は制服の内ポケットからナイフを取り出した。

「さすがに人を殺したいと思っても、何の恨みもない人間を殺すのは気が引けたんだけど、郷さんの自殺に君が関わっていたことが分かって、君が救いようのない極悪だと気づいてしまったんだよ」

「きゃああああー！！！！！！」

　遂に細田直己が悲鳴を発した。やめてくれよますます興奮してしまう。

「無駄だよ。すごい。心臓がバクバクいってる。このナイフはさあ、薄い刃を何枚も重ねてあって、これで切ったら綺麗に縫合することはできない、一生跡に残るんだよ。ふふふふふ」

「わああああああ」

　危機に陥った際には咄嗟に動ける人間とフリーズしてしまう人間とに分別されるらしい。細田直己は後者のようだ。

「郷さんの自殺の原因が君だったなんて、今日気づいたんだ」

　僕は細田直己の目の前まで近づいた。

「しょ証拠は！」

　くだらない。

「そんなの、状況証拠が物語ってる。それに僕は裁判官でも警察官でもないんだよ？　僕が、君を殺すことに対して何の呵責も負わないのなら、それでいいんだ」

「ワタシは殺してない！」

　細田直己が叫ぶ。

「へー。でももう、君が郷さんを殺したかはどうでもいい。僕が君を殺すんだよ！」

　そう言いながら僕は右腕のナイフで細田直己の顔を薙ぎ払った。

「いたっ！」

「頬。綺麗な頬。そこへ一生消えない傷をつけてあげたよ。あはははははは」

　細田直己の頬からどろりと鮮血が姿を顕す。

「ひ、ひやあああ」

「うるさいな。やっぱり何か飲ませるべきだったな」

　細田直己はその場にしゃがみ込む。

「だ、だれか」

「来てもいいけど、その前に殺すよ」

「あんたこんなことしてただですむと」

　細田直己が僕を見上げて睨みつけて言った。いい表情だ。いい眼だ。

「思ってないけど、少年法と精神鑑定が護ってくれるさ」

　やりようはいくらでもある。僕は血のついたナイフをペロリと舐めた。

「細田さん！　伊村さんやめて！」

　チッ。体育館の角から橋本忠代がこちらへ向かって来るのがチラリと見えた。仕留めなければ全てが水泡に帰す。僕はナイフを掲げた。

「とどめェ！」

　右腕を振り下ろそうとした刹那、強い衝撃が右手にあり、握っていたナイフを手放してしまった。

「ストライク！」

　新藤五月の声だ。

「よっしゃ！」

　中島来未恵が放ったソフトボールか？　よくも邪魔してくれたな。僕は飛んでいったナイフを見出すとそちらへ駆け寄る。だが向こうから走り寄ってきていた橋本忠代に、すんでの所でナイフを蹴り飛ばされてしまった。後ろの方でナイフが地面に落ちた金属音が鳴り響く。振り向いて見たが、駆け寄ってくる新藤五月と中島来未恵の近くまで飛んでいったようで、それを取りに行くまでに更なる妨害に遭う事は間違いないと思った。僕は橋本忠代へ振り向いて言った。

「ふ、やはり一番乗りは橋本君だったか」

「何やってる！」

　三条先生までが現れた。ゲームセットか。チラリと細田直己を見ると、頬から血が出てはいるものの致命には至っていない様子だ。失敗か。

「武器は!?」

「あっちの方に」

　橋本忠代は三条先生の問いかけに答えながらも僕をずっと睨みつけている。

「痛い痛い痛ぁあい！」

　細田直己が泣きながら喚きだした。僕は自分の敗因を考え始めた。

「橋本、悪いが保健室行って宮本先生呼んできてくれるか。包帯とかも頼む」

「わかりました！」

　三条先生に指示されて橋本忠代は保健室へと走って行った。

「大丈夫か」

　三条先生は細田直己へ駆け寄って尋ねる。

「痛ぁい！　痛いよぉ！」

　泣き喚き続ける細田直己。どうでもいいから黙ってくれないか。落ち着いて考えることができないじゃないか。三条先生がこちらを見て言った。

「…諦めろ伊村」

「もう諦めたよ。果たせず残念だ」

　そう言うと僕はその場にしゃがみ込んだ。未舗装の地面がひんやり冷たい。

「ナオ、大丈夫？」

　向こうから駆け寄ってきた大和栞蔓が細田直己へ声を掛ける。

「痛いよぉぉぉ！」

「伊村お前何でこんなことしたんだよ！」

　大和栞蔓と一緒にやって来た福岡則子が大声で問い質してきた。

「綺麗な鏡を割ってみただけさ」

　なかなかいい例えが出たと思った。

「お前マジか！」

　新藤五月が大声を上げる。

「豚は五月蠅いな」

　僕が忌々しげに言うと、新藤五月が辺りを見回しだした。

「お前だよ」

　隣にいた中島来未恵が、新藤五月の頭を叩いた。逆方向から駆け寄ってきていたらしい平安代がゲラゲラと笑いだした。

「ちょっと…タイラー」

　平安代についてきた橘ひろ子がそれを窘める。

「ポンコツ揃いだな」

　僕はこの状況を評して言った。

「いまこの場にいる全員、ひとまずこのことは黙っておいてくれるか？」

　立ち上がった三条先生は大きな声で言った。

「…はぁ？」

　中島来未恵が聞き返す。

「何言ってんの先生ぇ警察！　警察呼んでよお！　痛いよおぉ！」

　細田直己は半狂乱だ。

「これ使って」

　橘ひろ子は細田直己へ駆け寄って、持っていたらしいミニタオルを手渡した。

「このことが公になったら、伊村、お前、真っ当な人生歩めないぞ。それでもいいのか？　先生は、警察沙汰にしてお前の未来を閉ざしたくはない」

　先生という役割を演じているような空虚な主張に笑ってしまう。やはりこの教師は軽蔑に値する。僕は一言だけ口にした。

「屑」

「なんだって？　おい何ニヤついてる」

　表情に出ていたらしい。しかしそれを隠すつもりもない。全てが哀れに思えてくると、なんだかスッとする清涼感を覚えた。諦観の極みで達せる境地なのだろうか。

「先生、本気でそんなこと言ってるんですか」

　橘ひろ子も呆れて言う。

「本気とはなんだ。先生はいつだって一人一人の事を考えて」

「もういいよ」

　声を上げたのは平安代。

「あ？」

　声を掛けられ振り向いた三条先生に対して平安代はピシャリと言い放った。

「先生…カッコ悪いよ？」

「何か反省することはありますか？」

　家庭裁判所での少年審判で判事に尋ねられた事へ僕はこう答えた。

「次は確実に仕留めたいです」

　これで少年院へ送致される事になった。父の侮蔑的な眼は忘れられない。継母は来さえしなかった。どうでもいい。あんな家庭で保護観察なんかされてたまるもんか。僕は隣県の少年院へ送られた。
　自分の起こした事件について、後悔はないけれど腑に落ちない点はある。断罪に足る者がいれば誰でも良かったのは確かだが、細田直己に手を掛けたのは割に合わないという思いがある。裏サイトに露悪的な書き込みを重ねていたのは細田直己だと見抜いたのだが、それだけで人生を棒に振るというのは余りに割に合わない。決定的な何かが無いとさすがの僕でも行動に移さなかったはずなのに、あの日はどうしてしまったのだろう。僕は自分のことをすべて知っているつもりでいたが、自身について知らないことがまだあったのか。それとも、本当に僕だけが知らない何かが存在していたんだろうか。今となってはもう証明する術を持たない。もうすぐ春が来る。

前の時間