生活保護における水際作戦批判の意図せざる影響

 支援者と呼ばれる人たちが生活保護制度や対応を批判することの意図せざる影響について書かねばならない。扶養照会批判については既にnoteに書いた。(その他にも生活保護とその実施機関たる福祉事務所については色々書いてきたのでそちらもよろしくお願いします(ダイマ))
 そしてここで今一つ、保護申請の水際作戦についても書いておかねばならない。

生活保護申請と水際作戦の概要

 一応、生活保護申請の水際作戦について簡単に書いておく。生活保護の申請自体を拒む権限は原則として窓口担当者になく、要保護であるかどうかは申請が受理された後の資力調査と言われる調査を受けて判断される。水際作戦は、この申請そのものをさせないように来談者を不当に扱う一連の不適切な対応を指す。こうすることで、資力調査を経ずに要保護者をブロックするわけだ。
 その理由は財政的な要素が大きいだろう。生活保護の予算は国と自治体で負担割合が決められている。結局のところ自治体負担分も国から出るのだけれど、自治体からはそれでは足りないという声はある。また、人的資源は短期に融通しようがないので、自治体には生活保護を受給させない(水際作戦をする)メリットがあるようだ。

批判の利益と不利益

 ここからが本題。福祉事務所の担当者による不当な水際作戦はたびたびニュースにも取り上げられ、支援団体を始めとした諸氏がが盛んに批判しているので、一般の人にもその実態の一部が伝わりつつあるように思う。中にはかなり悪質だと思われる対応も聞こえてくるので、これは批判を免れないとは思う。免れないとは思うが、その批判が誰にどのように受け止められるかを思うと、私はNaiveにはなれない。

 生活に困って保護申請を検討している人がいるとしよう。経済的にも心理的にも追い詰められたその人が生活保護を考えてネットで調べてみた結果、やれ生活保護は欠陥制度だとか、やれ心あるケースワーカーは掃き溜めに鶴だとか、やれ支援者を連れて行けばすぐに申請させてもらえる(単独では申請させてもらえない)だとか、そういう個人の経験談を一般化した喧しい、けたたましい言葉を目にしたら、一体何を思うだろうか。これは困っている人が生活保護を申請したくなるような言論だろうか?そんなひどい制度を誰が利用したくなるだろうか?私が見たものは学術誌でも職能団体の会報でもなく、全てオープンな場でやりとりされていたものだ。誰を相手と意図しているかにかかわらず、ネット環境さえあれば誰でも見ることができるものだ。当然、要保護者も見ることができる。

 実は、生活保護制度を批判すればするほど、要保護者にとって申請の間口は狭くなり、敷居は高くなるのではないかという感覚が私にはある。現在なされている批判のうち、現在生活保護を受けている人の利益に適うことは多い。しかし、まだ見ぬ要保護者にとっては、ネットでの生活保護の議論はあらゆる意味でピントがズレていると思う。支援者の視界に入らずに生活保護の申請を諦めてきた人たちの存在に、支援者は想像力を動員しなくてはいけない。支援者からは見えないのだから、想像するしかあるまい。

 どんな解説にもだいたい書いてあるほど自明な申請の権利が、なぜ要保護者単独では行使できないのか?なぜ支援者が同行するだけで申請させて貰えるのか?訳知り顔の支援者がついて行くだけで翻るような余りに場当たり的な水際作戦がなぜ続けられるのか?支援者を使って申請したら後で仕返しされないか?そもそも、水際作戦はどの程度一般化できる話なのか?言論に接した要保護者が申請に行く窓口の担当者は、果たして水際作戦を仕掛けてくるのか?
 申請しようとする人はきっと色々なことを考えるだろう。しかしネットではケースレポートが散乱するばかり、個別の解決事例を通じて支援者のプレゼンスが直接間接に誇示されるばかりで、「自分は生活保護を受けられるのか」という疑問に役立つ記事も一般化に耐えうる批判的議論も水底に深く深く埋没している。支援者がする批判によって「生活保護は怖い制度だ」と思われては元も子もない。保護申請の心理的なハードルを高めないよう、要保護者/被保護者の尊厳を傷つけないよう配慮することは易しくなく、また配慮しないことの不利益は決して小さくない。
 こんなことを書かねばならないのは情けないけれど、生活保護制度は要保護者/被保護者の尊厳を代償にして政治家や福祉屋へ自己愛を備給するシステムでは断じてないのだ。そういう営みは人通りから離れて密やかにやるものだし、支援者が持ち合わせているべき慎みであると学んだ。

批判にプラスアルファされるべきこと

 そもそも保護申請という当然の権利行使に支援者が必要な事自体がおかしいことは既に様々な人が言及している。そこから更に一歩進んで、追い詰められた状況で役に立つ情報にアクセスすることの難しさ、信頼に足る支援者を見つける負担、保護申請さえも自分の力が及ばない無念さがあり得ることに、支援者は思いを馳せなくてはいけない。被保護者の利益を守るためにする批判が要保護者に意図せざる影響を与える可能性を考えなくてはいけない。支援者の手からなる特定不能なケースレポートが自分から遠く離れた要保護者の申請をためらわせる可能性に鋭敏でなければならない。一介の支援者が生活保護制度の実際について一般化して言えることは余りにも少ないにもかかわらず水際作戦等の過剰な一般化が競って繰り広げられ、適正かつ善良たらんとしている福祉事務所の現業員たちの心を切り刻んでいることにも思い至らねばならない。オープンな場で生活保護制度を批判するとき、それが今受けている人とこれから受ける人双方に与える影響、特に不利益を念頭に置かないといけない。かように、生活保護を批判するときに支援者が頭の片隅に置いておくべきものは多い。

まとめ

 生活保護制度は制度設計にも運用にも課題が多く、中には度し難い不当な取り扱いがあることは事実。それは批判されて改善されるべきことには違いない。適正な保護の受給に支援者が必要だとすれば甚だおかしなことではあるが、生活保護を必要とする人が水際作戦等の議論を負担することは必須ではなく、使えるものを使って生活保護制度から利益を得ることを妨げるものにもなり得ない。生活保護制度には内部的な幅が大きく、自分が申請した場合にどのような対応になるかをネットから得た知識から判断することは難しい。重要なことは、生活保護制度が助けになるのであれば、申請する利益はしない利益よりはるかに大きいということだ。

おわりに|生活保護批判の邪悪な解釈

 昨今の生活保護批判を目にして、私が水際作戦を強行している自治体の上層部であれば、心の内でこう言ってほくそ笑むことだろう。「もっと批判してくれ。自治体を名指しにしてもいい。批判されればされるだけ保護申請を思い留まらせることが出来るし、居所のない人はほかの自治体に申請に行ってくれることだろう。これだから水際作戦はやめられない」と。

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