卯月コウと叶(にじさんじではない)の話

あるいは自由についての話

誰しも自由を求めている
自由になるためならば人は生まれ変わることも辞さない

仏道ではそれは「出家」とか「得度」と呼ばれる
この世にいながらそれまでの生き方を捨てるわけだ
「解脱」とか「悟り」というのも自由と同じことである

エンタメの世界でも「輪廻」や「転生」を主題とする物語が作られてきたが、最近でいえば、小説家になろうの所謂「転生モノ」の根底にある動機もまた、自由を求めてのことだろう
この世での理不尽とか不自由をリセットするために、生まれ変わってみるわけである

バーチャルの世界で人格を得ることもまた、「転生」と呼ばれる
「受肉」もよく聞くが、どちらも元は宗教の用語である
これらのことばが選ばれたのは無意識かもしれないが、やはりここにも自由を求める気配を感じる

去る3月14日、卯月コウのとある配信を見ていた

送られてきたコウボーイのことばも、卯月コウ自身のことばも、いろいろと印象に残る回だった

一旦話が変わるが、同じ頃、『ギャングスタ・リパブリカ』(GR)というエロゲを初プレイしていた

2013年に発売された作品なのだが、偶然にも今
主人公の名前は時守叶(ときもりかなえ)
彼が掲げる「悪」というあり方は卯月コウの生き方と同じだ、と感じられた
これも何かの因縁と思い、GRを進めてクリアまで辿り着いたので、少しまとめておく

※本記事はブロマガに2019/4/3付で投稿したもののリライトです

GRの主人公である叶は、「邪悪であれ」をモットーとするギャング部なる部活をつくり活動している

彼の考える「悪」とは、

人がそうしたいと思うのとは違うやり方で、人がそうなりたいと思うことを実現すること

であるという

この場合、「悪」の反対にある「善」なり「正義」とは、「常識」とか「普通」とか「まとも」とか、とにかくこの世を支えていると思われている倫理観・ルールの範囲内に理想を置くことである

主題歌の題名「モラトリアム・クラスタ」がこの部をそのまま表しているのだが、要はギャング部の仲間たちは「普通」に考えると子供の部分をどこかに残していて、それらを共通点としてクラスタを形成している

子供の部分とは、「普通」の大人が捨てるもの、作中でいう「心の中のガラクタ」である
本作で起こる事件と言えばヒロインズの信条的対立であり、共通点とはいえそれぞれ違うガラクタを互いに認め合えるか、というのが本筋に見える

「悪は世界を変える」と言ってはいるが、叶は「普通」の世界に対し特にルサンチマンを抱えているようには見えない(『俺ガイル』の初期八幡あたりと比べると方向性の違いが見えるか?)
これはヒエラルキーとかカーストに関心がないからだろう
同じ理由でマウント意識もない

個人的に叶の好きなところは、たぶん自分がまともでないことを自覚している、というところである
まともでないことは百も承知で「悪」を公言している、つまりあえてやっている

まともな人間というのは自分がまともであることに疑いを持たない
『偽物語』の「本物になろうという意志があるだけ、偽物の方が本物より本物だ」ではないが、自分のことをまともでないと思っている人間の方が、素で自分がまともだと思い込んでいる人間よりも、よほどマシである

「普通」の大人が捨てるはずのものを抱えたまま生きる、という生き方もある
それを「普通」の世界に認めてもらう必要はなく、同じ生き方をする仲間と認め合いながら生きていく
本作の理想はこんな感じだろうか

中学生

さて、卯月コウにとっての「中学生であること」もまた、叶ならば「悪」として認めるのではないか
あるいは「ガラクタ」認定を受けるのではないか

コウもあえて「中学生」を張っている人であるし、「中学生であること」がコウと卯月軍団をつないでいるようにも見える
ライバーと視聴者という関係には越えがたい壁があるのは確かだが、ここにも仲間意識はあるだろう
「普通」の世界で生きづらさを感じている人たちが居場所を見つけたのだとしたら、私は祝福したいと思う(「自由を祝福することはやさしい」と言われるように、こんなことは私が偉そうに言えた立場ではないのだが)

完結したフィクションの登場人物と違い、バーチャルライバーであるコウは文字通り、生きている
たくさんの人と交流しながら、フィクションと同じ理想を張っている

まあこんなことを述べておきながら私も楽しく配信を見ているだけなので、あくまでまじめに考えると、という話

あえて

何かをし始めるとき、人は意志を持ってあえて始める
しかし時間が経ったり、途中参加の人が増えたりすると、その何かをあえてやっていることは徐々に忘れ去られる
するとまるで初めからそうであったかのように、素で何かをし始める
あえてやっている自覚がある人には、自由があり、遊びがある
しかし素になった人は、ガチになり、マジになってくる

VTuberを壮大なママゴトだと考えれば、基本は遊びである
この遊びをあえてやっている自覚がある人たちは、今でも楽しんでいるのだと思う
メンバーの線引きが厳密ではないので、時が経ち多くの人の目に触れるほど、素の人たちが関わることは増えていく
素の人たちの中には野次馬も混じっているし、当然の面持ちで棒を振りかざしたりもする
素の人たちにあえてやっていることをわかってもらうのはなかなか難しい

自由

人が生まれ変わりを求めるのは、誰もこの世にあえて生まれてきたわけではない、というひとつの理不尽に由来するのだろう
素で生きることに疑問を持つとき、人にはあえて生まれ変わるという選択が開かれる

『ログ・ホライズン』のにゃん太の述懐を借りれば、

若者たちは産まれなおすのだ。
理不尽な強制としてこの世に生を受けた幼子は、若者となり、己の意志でもう一度生誕を決意する。
自分が何者であるかを胸に刻み、望んでこの世界に生まれた二度目の赤子として自分自身の人生を歩み出すのだ。
――― 073「Route43」

ということだが、これは若者だけに留まる話ではないだろう

結局何が言いたかったのかと言えば、私はあえてバーチャルの世界で生きようとする人たちが結構好きである

以上、読了多謝

『ギャングスタ・リパブリカ』について、ネタバレOKという方は以下のブログ記事をお勧めします

自由な人を見るのもまた自由に感染したようで楽しい、というのがVTuberなどに一定の視聴者がいる理由なのだろうか