小説『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』覚書

富野由悠季による原作小説版に関する覚書
ネタバレあり

去る1月11日、この作品の映像化が正式にお披露目されました

若かりし日に初めて原作小説を読んで以来、心に残り続けているというか、忘れるに忘れられない作品ですが、これを機に読み返して気づいたことなどを記しておきます

既読前提にて、基本的な説明は省きますのでご了承ください

※本記事はブロマガに2019/1/28付で投稿したもののリライトです

マフティー・ナビーユ・エリン

ハサウェイ・ノアが名乗る「マフティー・ナビーユ・エリン」という名前
作中ではスーダン語・アラブ語・古いアイルランド語の合成で、「正当な預言者の王」を意味すると語られている
つまり「マフティー」がスーダン語、「ナビーユ」がアラブ語、「エリン」が古いアイルランド語に対応するはず

まず「マフティー」
スーダン語はスーダンアラビア語/アラビア語スーダン方言のこと
元のアラビア語はmahdiyyで、名詞の場合は「(天に)導かれし者」「救世主」を意味するイスラム教における重要語だが、この場合は形容詞なので「正当な」を意味する
語尾の「ィー」は活用されていないと見るのが妥当だろう
とりわけスーダン語とされているのは、史実である「マフディー戦争」が参照されているから

マフィーがマフィーになっているのは、富野さんが語感を優先して濁音を嫌ったためと思われる(『Gのレコンスタ』はその逆)
結果的にネットで検索しやすい

次に「ナビーユ」
アラブ語はアラビア語ないし古典アラビア語と見てよいだろう
元の語はnabiyyで、名詞として「預言者」を意味する
語尾の「ユ」は単数・主格の活用をしているように見える(nabiyy-u)
イスラム教の五大預言者の一人「ヌーフ」が旧約聖書の「ノア」と同じ人を指す

最後に「エリン」
古いアイルランド語はそのまま古アイルランド語のこと
エリンだけは正直よくわからない
元の古アイルランド語がÉriuだとすると、固有名詞としてアイルランドという国そのものか、その由来となった女神を指すが、「王」を意味するという記述は見当たらない
ちなみに古アイルランド語で「王」を意味する語はであるが、これ以上のことは検討がつかない
識者の意見が聞きたいところ

ニュータイプ

本作ではニュータイプが宗教的ニュアンスを基調として語られる

「そうだな。地球にいた頃よりは、人間の大脳皮質の働きは活発になっている、ということは、もう少し宇宙で訓練すれば、人間はみんなニュータイプになれるかも知れないな」
「そうね……ニュータイプか……革新した人間……そういうのっているんだよね」
「いるよ。悟りを自分のものにするだけではなくて、その周囲の人にも共有させるだけの力をもった人間という奴はねぇ……」
「それがニュータイプか!大佐は、宗教家なんだねぇ」
「まさかよ。宗教なんて、そんな教義の檻みたいなものにとっ摑まってたまるか。宗教じゃないよ。人間がもともと持っている……なんというかな、資質の話だぜ?」
―――(中)p.84 ケネスとギギの会話

ケネスのニュータイプの説明は、仏教でいえば「仏性」の説明とほぼ同じである
ニュータイプとは悟ってなるものであり、ニュータイプとして生まれてくるわけではない
ケネスの言う「資質」はポテンシャルのことで、人間にはもともとニュータイプになれるポテンシャルがある、という話をしている
「仏性」はこれに対応し、人間にはもともと仏になれるポテンシャルがある、という考え方である

ケネスは「悟りを自分のものにするだけではなくて、その周囲の人にも共有させるだけの力をもった人間」がニュータイプであると言う
このあとの会話では、オールドタイプ(自分)のことを「肉体をもち、感情をもって、解脱できないつまらない人間」と言う
ニュータイプは解脱者でありカリスマというわけである

別の言い方をすると、「わかり合えず争い合う」オールドタイプに対し、「わかり合い争い合わない」のがニュータイプであろうか
ニュータイプと呼ばれる人が軍人として戦争に加担してきたのは、これに対する強烈な皮肉と映る
本作でかろうじてニュータイプ的に描かれるのはギギのみで、基本的に軍人がニュータイプとして描かれることはない(と私には見える)
ハサウェイにニュータイプの素養があると周りは言っているが、本人の自覚としてもオールドタイプのまま彼は死んでいく

殺し合いをやっている以上はニュータイプになりようがないと、本作は言っているように思える

個、組織、全体

個人的に何度読んでもつらいところは、互いに魅かれているはずのハサウェイとギギの圧倒的バッドコミュニケーションである
自分が歳をとるほど、かみ合わない理由がわかってくるので、読み返すたびにつらい
ケネスとギギも基本的にかみ合わないのだが、ハサウェイとに比べればマシである

これは各々の行動原理が違うから起こるのだろう

「でもさ、近代の個性の時代といわれていた時代にこそ、人類は、消費拡大をして、その商業主義が、地球まで殺したんだ……人類ひとりびとりに自由を、という思潮がのこっているかぎり、人類はスペース・コロニーをつくったって、地球を食いつくしてしまうんだ」
「それは、家庭という小さい平和も否定することだよ?」
まっとうき全体というものに人類が収斂されなければ、地球は存続できない時代になってしまったんだ。それは、思い出して欲しいな……」
「人類がすべて解脱して、良き集合体になるなんて、そりゃ、ニュータイプの集団だわ」
―――(下)p.43 ハサウェイとギギの会話(太字は本来傍点)

ギギは「個」を重んじる人である
悪く言えば子供っぽい自己中だが、良く言えば心に遊びがあるので、3人の中では最も自由
しかし無邪気な子供ではなく、大富豪の妾をやらざるを得ないということを、いい意味で諦めていたような人である
マフティーの思想には共感するが、やり方は間違っていると最後まで主張する
ギギの言い分はまったく正しいのだが、ハサウェイもケネスもわかっていてあえて立場を演じたり「暴力」を用いているので、取り合ってもらえない

ニュータイプ観でいうと、ギギはオールドタイプ的な「肉体」や「感情」を否定しない
人類全体がニュータイプになることが個の消失なら、それはおかしいという立場である
そんな彼女が本作では最もニュータイプらしく見える

ケネスは「組織」を重んじる人である
まずもって職業軍人としての立場を重んじる
マフティーの思想には共感するが、テロリストとしてのマフティーに対抗することには一切の容赦がない
ハサウェイに比べるとオールドタイプとしての自分に諦めがあるし、男をやることもできる

ハサウェイは「組織」の人でもあり、加えて地球や人類「全体」を重んじる人である
ハサウェイが背負うものは重い
シャアとアムロを背負っているし、クェスを殺したという罪の意識も背負っている
それでいてマフティーそのものを演じている
自分の中のオールドタイプ的なものを否定したいので、理念的にギギを受け容れることができない
現実的にも、ケリア・デースという彼女がいて、クェスを忘れられないでいるというジレンマを抱えている

ギギはオールドタイプであることにこだわりがない

ケネスは仕方なくオールドタイプとして生きている

ハサウェイはオールドタイプでいてはいけないと思った

ハサウェイをバカな奴だと笑うことはできるが、私にはそれができなかったので、ここまで心に残ったんだろう

「にせもの」と「ほんもの」

本作をして、シャアとアムロが残したものの「継承」の物語、という言い方もできるかもしれないが、個人的には「偽物」が「本物」になろうとする物語である、と思う

「わかった。あのキルケーね?キルケーの魔法は、獰猛な動物をおとなしくさせることができるって……そう、オデッセウスの物語のなかにでてくる、太陽神へーリオスの娘の名前だ」
「正解だ。これなら、マフティーに勝つさ」
「でも、マフティーは、いろんな名前を合成して、ギリシャ、ローマの神話だけの神々に勝とうって考えがあるんでしょ?そう思わない。ハサウェイ?」
―――(上)p.199 ギギとケネスの会話
ギギは、これから、ハサウェイ・ノアの名前は、人類の生活エリア全域で、真実、正当な預言者の王という意味をあらわすマフティー・ナビーユ・エリンという呼称によって、枯れることない水道というアボリジニの言葉、マランビジー、そのようになるだろう、と想像した。
それは、伝説とか神話といわれるものだ。
―――(下)p.220

この辺りがこの物語の骨格を表しているのではないか

ハサウェイはオールドタイプだと自覚しているが、ニュータイプになろうとした
これについては本人もうまくいかなかったと思っている

彼のほんとうの戦いは、神話の上書きを賭けた戦いであった
オールドタイプを規定する神話を、ニュータイプの神話に塗り替える、という戦いである

マフティー・ナビーユ・エリンは、そもそも借り物の名前であるし、現実には正当でも預言者でも王でもなかった
しかしこの物語を通じて、ほんとうに名前を体現するものになった、というのがギギの考えである

ハサウェイはニュータイプにはなれなかったが英雄になるだろう、ということだが、本作の時点では、作中の人たちにとっても私たちにとっても、悲劇のヒーローであることに変わりはない

余談だが、Wikipediaなど複数のWeb資料に、「真実、正当な預言者の王」がマフティーの意味である、という記述がある
恐らくどれかを元に転載されただけであろうが、いずれにせよこれは誤読ではないか
上記引用部分にあるように、この場合の「真実」とは、「ほんとうに」という副詞のように使われているだけであろう
物語の筋としてもそうとしか読めない、というのが私の意見である

おわりに

今ではこの物語の結末も知られ過ぎているが、私自身、わかっていても読むたびに自分の方が変化していて違う感想を持つので、これを読むことが自分の振り返りのようになっているから不思議である

『……死ぬぐらいは、みんながやってきたことだ。ぼくにだって、ちゃんとできるはずだ』

ここに辿りつくたび、なぜか生きる勇気が湧いてくる

シャアもアムロも、結局死に際はぼかされて描写されなかった
ハサウェイだけが、ちゃんと死んでみせた
思うにこれが忘れられない大きな理由なんだろう


以上、読了多謝


おまけ

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