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春の嵐の最中から

「日本の春の訪れとヨーロッパのそれとは、まったく違うものなんですよ。」

と、中学校の音楽の授業で習った事をよく覚えている。
日本の春はゆるやかにやってくる。三寒四温で徐々に暖かくなって、つぼみが膨らんで花が咲き、虫たちがそろそろ良いかな~なんて顔を出す。
ヨーロッパの春はもうちょっと手荒らしい。
冬の終わりに結構な嵐になって、暴風がざーーーーっと吹き荒れたあとに、一斉に草原に花が咲き誇る春がやってくる。よっしゃ来た!春!みたいな切り替わり。

2020年5月1日。
2カ月ほど前から世間がざわつき始めた新型コロナウイルスの影響で、世の中はかなり強制的に変革を強いられたと言っても過言ではないはずだ。
毎日学校に行く、会社に行く、打ち合わせに出かける。
そんな「当たり前」が、肉眼ではカケラも見えないウイルスという存在によってあっという間に覆されてしまった。

今までどんなに「時短」だの「働き方改革」だの「子どもたちの居場所づくり」だのと叫んでも、遅々として進まなかったものが、驚くほど迅速に導入が進み、オセロで大事な角を取ったかのようにぺろぺろと社会が反転していく。およそ人間社会というのものは、自力で変えるより「自然」という抗えないもので変える方が手っ取り早いのだと改めて思う。

「相手の立場にたって考えなさい!」

教育現場で耳にタコができるほど聞く言葉。
にも拘わらず、先生たちは「学校に行けない、行きたくない、行きたいけど無理」な子どもたちの声を真剣に受け止めているようにも思えなかった(受け止めてる先生もいらっしゃいます)し、周りの大人たちも「なんで行かないんだろう?行けないんだろう?」なんて首を傾げていて。

ところが、今回「学校に行きたい」子が行けなくなり、「学校に行きたくない」子が「行かなくていい」という環境が手に入ったという事態において、完全に逆転現象が起きてしまっている(ところもある)ようだ。

今まで「行け!」と言われても行けなかった子どもたちが家の中で明るくなり、「行きたい!」という子どもたちが、陰鬱となる。
学校に行ってくれているのが当たり前!の保護者にとっては、毎日の子どもとの時間を楽しめる人もいれば、仕事よりこっちの方がしんどい!と早期再開を叫ぶ人もいる。

いくら言われても「相手の立場になったことないからわかんないしなー」という圧倒的多数だった人たちが、その立場に強制的に立たされたというのだから、自然の力と言うのは恐ろしい。

「毎日学校に通う」事の意味ってなんだと思う?

と聞かれた事がある。
私はどこかの受け売りで「毎日真面目に休まず会社に通う人材を育てるためじゃない?」と答えたのを覚えている。
今までの社会であれば、毎日休まず会社に通ってきてくれる人材というのは、企業にとって必要だったのだと思う。
実は、テレワークでもいいかな…と思っているような作業でも、切り替えるには手続きも多いしめんどくさいから、このままでいっか…といういかにも伝統的なPTAのような考え方でここまで来たのだろう。

今回の騒動(と軽く表わしていいものかどうかはさておき)で、毎日学校に行かなくても、webで授業が受けられたり、資格が取れたりなんていう事が当たり前になり、企業側も「あれ?この仕事なら交通費払わなくてもテレワークで良くね?」なんて気づくきっかけになれば、おのずと「毎日学校に通う意味」というのはなくなってくるのかもしれない。

もちろん、「毎日通うことが悪い」という意味ではない。
毎日決まった動きをすることが、社会や精神の安定に寄与するというのはすでに証明されていることだ(だからこそ、変わるのが面倒で今まで放置されてきた部分が大きい)。

うちの息子は重度の知的障害と自閉症を持っている。
決まったルーティン通りに動かないと、それはそれは大きな癇癪を起こす。
急な予定変更は苦手で、納得するのに時間がかかる。
今回の件など、最早親子で試練の間に放り込まれた!という実感しかない。

そんな個々の家族の事情なんて一旦横に置いておかねばならぬほど、社会環境は大きな変化を強いられた。
けれど、一度「今までの価値観が反転した社会を経験した」我々が選べる選択肢は増えたのではないかと思う。

かつて、志村けんさんが仰ったという言葉
「非常識ってのは、常識を知らないと、できないんだよ。」


今まで「こうしなければならない」と思っていたことは、案外そうでもなかったのではないか。ずるずると続けてきたことをやめるきっかけにもなったのではないか。もしくは、このさい新しくやりたかったことをやろう!という契機になったのではないか。

今までと違う日常がやってくる

ただ、私はこれをあまり悲観してはいない。
真冬の暴風雪で、凍死するわ!!と感じている方もいるかもしれないが、個人的にはこれは「春の嵐」なのだと思っている。

この暴風を切り抜けた先にあるのが、一面の花畑なのかそれとも土壌ごと吹っ飛ばされた世界なのかはまだ分からない。

とはいえ、「先が見えないのが当たり前」の生活を毎日している息子といると、息子の中ではそんなに世界は変わっていないのかもしれないなと、ふと思うのだ。

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