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おかたづけ

放課後等デイサービスで働いているので、障害を持つ子どもたちと関わるのが仕事である。私は上司の価値観には合わないこともあり、会社の人事制度も10年以上遅れたように思っている。

そんな会社に勤めてはいるが、仕事が療育だの支援だの言われている。できないことができるようになった、ことばが増えた、排泄が自分でできるようになった、とか。確かにそういう細かい採点みたいなものがあるけれど、数字ばかり求めていると、それって、いまのあなたに必要なことであるのか疑問に思うことが多い。

できないことをできるように支援するという考えも好きではないけれど、一応の評価としては、目でみえるのでよいこととされる。しかし、できないままでいる権利、やってもらって自分でしたことにする権利とか、そういうものの方も必要ではないかと思うときがある。

そもそも、このストレスの多い新学期に、大人のエゴか本人も思いなのか、混ぜこぜにして、できるようになるために、いま絶対、必ず頑張らないといけないことなんてあるものか。いまはできないけれど、できるようになったらいいね、という柔らかくて温かく気持ちで見守ってもいいんじゃないかな。その気持ちに寄り添える大人がいるだけでも、子どものこころは成長する栄養になるんじゃないかな。

そのうえに、具体的な目標があって、それをできるようになるためには、まず必要な概念だったり、認知の仕方だったり。そういうステップがないと、さすがに無理だろう。

片づけを例に考える。できないのは、やり方が分からないからかもしれない。どのおもちゃをどこにどのように直すことが片づけなのか説明することで、できるようになるかもしれない。色で分けるのか、形で分けるのか、本というものがどれなのか、どこにどうやって直すことを求めているのか。ここを整理していく、なぜしないのか考えることをしてほしい。目的が分からないかもしれない。部屋が散らかっていると、次に同じもので遊ぼうとしたときに、どこにあるのか分からなくて、探すのに時間がかかるから、やれたらいい。時間がなくなるから、少しでも長く遊びたい。そんな気持ちもあるのかもしれない。その気持ちを代弁しながら、悲しいあそびの終わりに付き合う大人がいていいじゃないか。


未だに片づけをさせるとか、させること。つまり、大人の指示に従えるようにならないといけないという考えは多いので、それは別の話であるが困ってしまう。自立ではなくて、ある程度の自律が目標で、ときどき気分屋ぐらいでも十分なんじゃないかな。だって人間だもの。みんなで一緒に暮らしていける社会がいいなあ。

私はその内容を嫌だということもできるし、その日の気分でやったりするし、仕事を休むこともできる。しかし、子どもたちにはその経験がない、伝える手段が限られているかもしれない。大人が偉いわけでもなく、嫌だという権利をどのように保障していけばいいのか。そういうところまで、考えられた環境がまず最初にあってから、小さなことから一緒にやってみる。いくらでも失敗したと思う体験もあっていい。失敗を先回りして、潰していくのは、人生の経験を潰してしまうと思っている。障害の特性から、経験からの学習が困難であっても、明確なものでなくても、ぼんやりとしたパターンのようなものは生み出されていく。これは私の経験からなのであるが。

ただ一言、片づけをして、というのは、想像力の欠如だろう。


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