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備忘録 宮台真司「イスラム教への理解」

「東京教区 平和旬間 講演会 講師 宮台真司さん」
https://www.youtube.com/live/c411lAQtT_w?feature=share
より要点抜粋。

※以下の文章は宮台真司による解説の必要箇所を抜き出して要点としてまとめたもので、宮台真司の語りをそのまま書き起こしたものではありません。

◆一神教の系統

宗教と平和をめぐる今日最大の問題はイスラム教とキリスト教の対立であるが、この対立はもっぱらキリスト教側から仕掛けたものである。イスラム教はもともと布教をしない。強制改宗はコーランによって固く禁止されており、たとえばかつて日本では大川周明がアジアがひとつになるとすれば全く攻撃性を示さないイスラム教が軸になるべきだと考えたほど。

キリスト教徒の側からはイスラム教をよく理解する必要があり、キリスト教というイスラム教に比べるとはるかに未規定で、よく解らない宗教とは何なのかをもう一度よく考え直す必要がある。

一神教と呼ばれる宗教形態のルーツはひとつしかない。ユダヤ教とそこから分かれたキリスト教、双方を研究することで生まれたイスラム教である。ユダヤ教の成立を「出エジプト」に定めるならば、その50年前にエジプトでアクエン・アテン王による世界で初めての一神教が誕生しており、あっという間に国が乱れて息子のツタンカーメン時代に多神教へと回帰している。なぜ一神教はひとつの系列しかないのかと言えば、それは非常に特殊な宗教だからで、人類史上これからも一神教が現れることはありえない。

宗教には4種類ある。ひとつは自然信仰(アニミズム)であり、いまひとつはギリシャのパンテオンの如き多神教、もうひとつがマニ教やゾロアスター教のような善悪ニ神教、そして一神教である。

自然信仰は自然と共にある生活がなくなると消える。開発や強制移住によって消える。あるいは気候変動で環境が失われても消える。ゆえに一神教の多くは自然信仰を否定、あるいは対立する。自然環境や住む場所が変わっても普遍的に通用する信仰が大事だと考えるからである。

次にパンテオン(多神教)であるが、なぜエジプトのアテン神信仰による宗教紛争が起こったのか言えば、パンテオンとはそれぞれの部族の神の集合であり、部属間の紛争が起こると再びどの部族の神が一番偉いのかというところに戻ってしまう不安定な面がある。

善悪二元論の二神教がなぜ広がらなかったのかは、マニ教からキリスト教に改宗したアウグスチヌスを見ればよく理解できる。悪の神と善の神が宇宙開闢から争っていて最後の決戦がアルマゲドンで、その結果がどうなるかは判らない。このような思考は悪が蔓延する時代には悪の神が強いと考えるのみで、まったく思考が深まらない。つまり我々を賢くしてはくれない。

こうした自然信仰、パンテオン、二神教といった宗教の袋小路からの離脱の運動として一神教が起こった。


◆イスラム教の特徴

7世紀はじめに誕生したイスラム教はムハンマドによるユダヤ教やキリスト教の徹底した研究によって出来上がったものであり
一神教としては完成されたもの。完成されたから良いというものではないが、完成しているからこそ様々な問題が起こりにくい。

ところでイスラム教徒たちの法の共同体においては、ギリシャのアーカイブやユダヤ・キリスト教のアーカイブがリスペクトゆえに膨大に保存されてきた。これらの文献をヨーロッパが逆輸入したのが12世紀、中世後期である。それによるアリストテレスブームが起こり、それを前提とした13世紀、トマス・アクィナスの「神学」のという展開になっている。

かくして12世紀以降に導入されたギリシャやユダヤ・キリスト教の知恵は、特にギリシャををベースとしてルネサンスが生まれて近代へと繋がっている。またトマス・アクィナス、あるいはスコラ神学なくしては、今日のキリスト教はプロテスタント含めて一切存在し得ない。そこから判るように、我々がキリスト教徒として存在できるのはイスラムのお陰だということは絶対に忘れてはならない。忘却は許されないのである。

イスラム教の本質は二つある。ひとつはコーラン(クルアーン)に記された確定した善行のリストがあり、ユダヤ教と同じように戒律に従う宗教である。二つ目としてものすごく重要なことは、イスラム教では「神強制」が否定されているということ。神強制とはマックス・ウェーバーの言葉で、私は罪を犯さなかったので、あるいは罪を悔い改めたので良いことをもたらして下さい、と神に無理強いすることを意味する。つまり善行リストの文言通りすべて行っても、現世での救いや禍いには一切関係ないという設定である。つまり呼ぶ記的なな問答は起こりようがない。しかし、ここに面白いおまけの教義が付いており、死んだ後についてはユダヤ教やキリスト教と同じで、永遠の生命が得られるかも知れない最後の審判を経て、もしそれに合格したならミルク&ハニーとも呼ばれる極楽的な環境で生きて行けるというもの。

イスラム教に教義論争は起きない。教義論争というものは今までまったく起きたことがない。善行リストはあるが、ユダヤ教と違って特定の民族と結びついた戒律ではない。どんな民族でどんな生活様式でも従えるような善行リストである。ちなみにスンナ派とシーア派の対立は教義対立ではなく宗教指導者の継承、すなわちカリフに継がせるのか、イマーフに継がせるのか、をめぐる方針の分岐である。

なぜイスラム教では布教や強制改宗が行われないのかと言えば、その共同体が善行リストに従う者たちの集まりだからである。自動的に良い社会になる。すると周囲も良い社会に憧れて放っておいても人がはいってくる。従ってわざわざ福音宣教のようなことをする必要がない。

ちなみに死ぬ前を「現世」と呼び、死んだ後を「来世」と呼ぶとすれば、ユダヤ・キリスト教、イスラム教ともに共通して天国というものではなく、来世は死んだ後「煉獄」にとどまり、最後の審判を経て合格すれば復活が叶う。どこに復活するのかと言えば、この「地上」に復活するのである。「来世」とは言っても、この「地上に」というセンテンスが加わっているので、原理がまったく異なるのである。
※依代としての肉体を必要とするため、イスラムでは今でも土葬の習慣があり、イスラム教徒の多い地域で紛争が起きている。

キリスト教徒は11世紀末、12世紀、13世紀と十字軍の遠征によってイスラムの異教徒を殺戮した。あるいはスペインのエルナン・コルテスによる中南米のマヤ・アステカなどの原住民文化を破壊した。これも名目はキリスト教徒による「異教徒狩り」であった。更に最近では1948年、1957年、1967年と三次にわたる中東戦争が行われた。直接にはユダヤ教徒の国であるイスラエルと周辺のイスラム国家との戦いであり、欧米のキリスト教国は敵の敵は味方と言わんばかりにイスラエル側に味方した。

従ってキリスト教徒は歴史的な事実として非常に好戦的であった時言える。ただしイスラム教はイスラムの法共同体を滅ぼすような攻撃を受けた場合には、反撃としてのジハード(聖戦)を肯定している。と言っても、ジハードはイスラムの最高指導者カリフあるいはイマームがそれを宣言しなければジハードにはならない。今のところオスマントルコ以降、つまり1920年以降、カリフは空位のままであり、いずれにせよ最高指導者はまだ一度たりともジハードを宣言していない。このことは世界にとって幸福なことであり、もしジハードが宣言されたならば非常に恐ろしいことになることは確実ということが出来る。


以上、

この後、宮台教授はキリスト教の特徴としての本質的な「未規定性」の話題へと移るのだが、それについては機会を見て別記事で要点を述べたい。

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