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市場経済と民主主義の感情的前提を維持する処方箋はあるのに、それを社会に実装する道筋が見えない(宮台真司)

備忘録:深堀TV「ポスト資本主義 新しい社会のあり方を考える 」
宮台真司・ジョー溝口・ダースレイダー
ゲスト:斎藤幸平
2021/02/22/月 21:30~

※(注) 番組の内容を自己流にまとめたもので、宮台真司本人の言葉をそのまま記録したものではありません。

資本主義とは〈貨幣を増殖させるための貨幣〉という性質の貨幣を回すため、もともとは市場化していけないもの、労働や土地、環境、人々の感情の働きなど、ありとあらゆるものを市場化していく動きのこと。

市場それ自体が悪いわけではない。市場を否定すれば市外配分のために行政官僚制を使わなければならず、それは直ちにスターリニズムということになるので、基本ムリ。

1920年代に「市場の限界」が知られ、もはや新規需要が見込めず、買い替え需要を惹起するしかないということで、ジェネラル・モータースによるモデルチェンジのようなビジネスモデルが創られるようになった。さらに1970年代、ローマクラブの「資源の限界」に続き、「環境の限界」が議論されるようになったという、そういう流れがある。

基本的に資本主義は常に何かに〈頼る〉メカニズムである。自分たちで守る、創り出すというマインドがないまま、人を、自然を、ただ使うということをやり続け、その結果、どんな副作用・副反応が生じるかということに無頓着となる。一般に資本主義か否かに関わりなく、マーケットメカニズムは問題を外部に移転して頬かむりする傾向があるのだが、資本主義のもとではそれがますます顕著になる。

僕(宮台真司)の最近の文章では「市場の限界」「資源の限界」「環境の限界」の後に、「感情の限界」ということを考えている。それは我々が人間的な存在であるがゆえに〈疎外〉に対して怒りを感じたり、不全感を感じたりして、革命に立ち上がるという前提であったものを、今ではそれをそう簡単には期待できなくなるほどに、資本主義が我々の感情に食い込んでしまっている。

フランス革命の30年ほど前、アダム・スミスとジャン・ジャック・ルソーという二人の人物が、経済と政治の領域でほとんど同じことを言っている。アダム・スミスは、マーケットは人々が同感能力〈sympathy〉を持つ場合のみ「見えざる手」を働かせる、という言い方であり、ジャン・ジャック・ルソーであれば、民主制は人々が憐れみ〈pitie〉、すなわち、ある政治的決定がなされたら、みんながそれぞれどういう目に遭うかが判って、しかもそれが気にかかるという状態を必要としている、と言っていた。

つまり、僕らが当たり前だと思っている資本主義的な市場経済も政治的な民主制という制度も、人々の感情的な前提が壊れないようにしていかなければいけない。アダム・スミスもジャン・ジャック・ルソーも、放っておくと市場が感情的な前提を壊すし、民主制が感情的な前提を壊すと考えていた。

問題提起したいのは、今のアメリカや日本の、Qアノン、Jアノン、あるいはそれ以前のウヨブタ的な妄想現象を見ていると、本当に問題はかなり深刻になっており、たとえば在特会や高須さんに連なる人々、あるいは地球平面説論者だとか、ほとんど対話の可能性がなくなっていることをどうすればいいのか?それを長期的に考えていかなければならない。

80年代前半に出てきたイタリアのスローフード運動(食の共同体自治)とそこに由来するスローライフの運動、あるいはその後、特に2000年代になって顕著になったデンマークその他の国々によるエネルギーの共同体自治の方向性。これらはかなりの成果をあげてきている。斎藤幸平氏の説くマルクスのアソシエーショニズムのように、処方箋はこれしかないと判ってきている。このような社会になれば良いなという解答はかなり判っている気がする。

冷戦体制が終わった時、もはや資本主義しかないと言ったフランシス・フクヤマのごとき発想は今はなく、資本主義の暴力的な運動に如何にして枷をはめるかという方法は、現実的に存在し、実績もあるのに、それをどうやってマクロな社会に実装していけるのかが課題となっている。アソシエーショニズムも正しい。また、コンセンサス会議、熟議付き住民会議や世論調査など、そのような提案を実現できているところではかなりの成果をあげてきており、その有効性も十分に判っているのに、そこに関わっている人々以外の人々との落差をどうすればいいのか。その橋渡しが今は見通せない状況にあり、全体として民主主義がそこに向かっているというよりは、むしろそこから離れてしまっている印象さえある。




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