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備忘録 YMCA×宮台真司「社会という荒野を仲間と生きるーイエス編」③

※以下の文章は宮台真司の講義を備忘録として自己流にまとめたものです。


◆宗教進化論【1】

アインシュタインの有名な方程式E=mc2は観測を通じて確かめられている事実で、今後、突如として新しい宇宙法則でも誕生しない限り、普遍的な定理として扱われる。だが、そもそもなぜ E=mc3ではなくE=mc2 なのか。

われわれが理不尽・不条理を考える場合「なぜ私を災難が襲うのか?」という出来事の次元で考えがちであるが、「なぜ宇宙にはそのような摂理があるのか? なぜ宇宙はビッグバンから誕生したのか?」と、このような問いも理不尽や不条理を露呈させるものなのである。

したがって理不尽・不条理は「出来事」に関わることと「枠組み」に関わることに分けることができる。また、最近の理論物理学の動静を見てみると、われわれは再び大挙してこの「枠組み」の側に注意を向けつつあるように思える。これについては後述する。

さて、われわれが理不尽・不条理を「出来事」として考える場合、個体を前提として出来事を論ずる。しかし、古い社会では「なぜこの村を? この部族を?」という風に共同体を前提とするのである。これは「枠組み」についても同様で、昔は共同体にとっての枠組みしか存在していなかった。

今では、ほぼすべてが個体にとっての枠組みとなっており、人によって信じている枠組みが異なり、その枠組みが理不尽や不条理として現れるかどうかも違っている。イエス信仰の立ち位置はまさにこの個体にとっての枠組みが問題となるわけだが、なぜ人類がこのようなイエス信仰を必要としたのかについて述べる前に、まず宗教進化の第一象限である原初的宗教について解説していく。


◆宗教進化論【2】

原初的宗教では理不尽や不条理が共同体にとっての出来事として理解される。理不尽・不条理な出来事を共同体が処理するのである。「なぜ村を天変地異が襲ったのか? なぜ狂人が現れたのか?」共同体はこれを〈儀式化〉というメカニズムによって処理する。この儀式化が目指していることは単純で、《俗》なる時空間の出来事を《聖》なる時空間に送り込み、そこでまったく別種の因果性を期待するのである。

天変地異や狂人の出現などにより、共同体はアニミスティックな神の怒りを鎮めるため、みんなで儀式をする。しかし、儀式を行ったのに問題が収まらないこともよくあることで、その場合、誰かが儀式の間、邪(よこしま)なことを考えていたとか、あるいは儀式の手順を間違えたと考えることによって、理不尽や不条理がある種、無害化される。

日本でもヨーロッパでも、古い社会では例外なくこの儀式化が行われていたのだが、次第にこの方法では処理できなくなっていく。あるいは、原初的宗教から古代的な宗教へと進化させた社会は、より複雑な、異なる次元の社会へと進化することができた。そして、結論から言ってしまえは、古代的な宗教(進化した宗教)の典型がユダヤ教なのである。

ユダヤ人とは何か。それは血筋ではない。ユダヤ人とはユダヤ教を信じている人たちであり、ユダヤ教とはユダヤ人という共同体の宗教であり、民族宗教である。従って「ユダヤ人なのにユダヤ教を信じていない」などという言葉の遣い方もない。ユダヤ教には613のミツヴァーと呼ばれる戒律があり、そこにはユダヤ人の生活習慣や暮らしの諸事全般に関わる詳細な規定がある。従ってユダヤ教を信じるとはユダヤ的な生活を送ることであり、ユダヤ的な生活を送らない人はユダヤ教徒にはなれない。これがユダヤ教が民族宗教であり、共同体宗教とされる所以である。

このユダヤ教はそれまでの原初的宗教とはまったく違った性質を持っている。それは〈戒律化〉と呼びうるもので、原初的宗教のように理不尽や不条理を儀式によって処理するのではなく〈戒律〉によって処理するのである。

原初的宗教では、理不尽や不条理な出来事が起こるたびに共同体全体がパニック、あるいはパニック的トランスに陥り、そこで行われる共同身体的な儀式によって問題を無害化していくのだが、当然、このような社会では複雑化していくことなど絶対にできない。マックス・ウェーバー的に言えば計算可能ではないからで、原初的な宗教から古代的な宗教に進化するには、この計算可能性が高まらなければならない。

如何にして計算可能性を高めるのか。それは理不尽・不条理な出来事を「否定の図式」に落とし込むことによってである。すなわち、合法に対する非合法、道徳に対する不道徳、美に対する醜、正に対する邪、健康に対する病、のような否定の図式、これを与えるのが〈戒律〉なのである。原初的段階であればいちいちパニックに陥っていた期待はずれの出来事を、あらかじめ否定の図式を想定しておくことで、ネガティヴィティー側のポケットに投げ込む。これによってパニックが回避され、出来事は〈戒律〉に従って処理されるのである。

ある時、戒律が端的な枠組みとして人々に与えられる。この〈戒律〉化は多かれ少なかれ絶対神の観念を要求する。なぜなら、人々はなぜそんなものに従わなければならないのか、今までそんなものに従ったことはないし、他の部族にもそんなものはないと訝るだろう。だからこそ端的な枠組みを与える存在としての絶対の神が必要とされるのである。

つまり、なぜ〈戒律〉という端的な枠組みがあるのかといえば、それは絶対の神が与えたからである。神は端的な出発点であり、条件付けられず、名付けることも偶像化することもできない。神は世界の外にあるクリエーターであり、われわれは世界の内部にいる。世界の外にある神は、内部にいるもののように名付けることも偶像化することもできない。それは涜神行為にあたる。イエスは人間でありながら神の子である。だから偶像として表象できるが、主なる神は表象できない。世界の外にあって表象不可能な神が〈戒律〉の端的な性質、根源的な偶発性が表に出ないよう囲い込んでくれるのである。

◆宗教進化論【3】

キリスト教の出現は日本で言うところの鎌倉新仏教に近いもので、中世的宗教とも呼ぶことができる。この中世的宗教において、初めて宗教は個体の、個人のものとなった。だから理不尽や不条理を〈信仰〉によって処理できるようになったのである。

ユダヤ人であればユダヤ教徒であるため、彼らに信仰の概念は存在しなかった。キリスト教になって初めて信仰の概念が発生したのである。〈信仰〉とは個人による外から見た選択のことである。イエスなど信じなくてもいいのに信仰するという選択をすることである。なぜイエス信仰のような中世的宗教が発生したのか。それは福音書を見ればよく判る。

イエスのみならずエッセネ派のようなユダヤ教改革勢力が出てきたのが、紀元前1世紀の100年間であり、当時のイスラエル王国は非常に階層化が進んでいた。そこでイエスが気づいた問題、すなわち『聖なる犯罪者』で述べたような問題が生じてくる。戒律に従える金持ちだけが誉められ、戒律に従えない貧乏人は貶められる。金持ちは最初から救われ、貧乏人や病人は救われない、と。これはトートロジーであり、親鸞もこれと同じ問題に気づいた。

社会は変わった。いまや戒律に従える人間、犯罪を犯さない人間は余裕のある奴だけである。本当に救われなければならないのは、むしろ戒律を守れない者たち、犯罪を犯さずには生きていけない者たちの方ではないのか。そして、神は馬鹿ではない。このトートロジーを許容し続けるはずがない。だから神はメッセージを変えた。つまり『旧約』から『新約』へと変わった。契約は改められたのである。

もはや戒律に従う必要は一切なくなった。イエスによれば613のミツヴァーは人が創ったものである。それに対してモーセの十戒は確かに神からのメッセージなのだが、しかし、ヘブライ語における十戒は「~すべし」と命ずる文言ではなく、「あなたがたは~のように生きてきている」という事実の記述である。従って、十戒に従わなかったから災害が起こるなどということはなく、ましてや人が創ったミツヴァーに従わなかったからとて罰せられるものではない、と、そうイエスは言ったのである。

吉本隆明や橋爪大三郎の説によれば、『旧約』における教え、すなわち戒律に従うという外面的、身体的な営みをイエスは否定し、『新約』において信仰という内面の働きに変えた、つまり救済の条件を「外」から「内」に変えたのだとする解釈があり、欧米にも多くこの解釈を採用する者がいる。しかし、これは間違いである。なぜかといえば、イエスはミツヴァーを神の命令、つまり戒律ではないと言っているからで、そのような戒律は存在しないと明言したのがまさにイエスの立場だからである。


(次稿「カトリックの密教と顕教 」)


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