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すべての〈生〉は〈死〉を前提にして存在している(宮台真司)

備忘録:JAM The World 月イチ宮台
青木理、宮台真司
JAM THE WORLD | J-WAVE | 2021/03/02/火
※(注) 番組の内容を自己流にまとめたもので、宮台真司本人の言葉をそのまま記録したものではありません。

死を怖れる人間の多くがエゴセントリック、利己的タイプであるのは、それほどまでに分断と孤立が深まっているからであり、本来、ヒトは共同体に包摂されていれば、生と死が表裏一体であることを理解できているはず。だが、彼らにはそれがない。また、彼らは人類が永続するという頓馬な幻想にも捕らわれている。

地球の歴史とその行く末についての仮説が固まりつつあり、単細胞生物を含めたすべての生物が消滅するのは約10億年後であるという。例え人類がそこから脱出できたとしても宇宙ですら最終的には滅びる。最新のビッグリップ理論によれば、宇宙は60億年前から加速膨張の過程にあり、熱力学的死を待たずして、220億年後には滅びる運命にある。

生物も地球も宇宙も終わる。ならば個人の〈死〉に浅ましくこだわる必要などない。それよりも考えてほしいのは、どうせ終わってしまうものが、なぜ存在するのか。宇宙が終わるとは時間と空間が消えることなのだが、なぜ消えてしまう時空間に地球があり、われわれがいるのだろう。そこにはどうしても〈奇跡〉という感覚が浮かんでくる。この〈奇跡〉には何か理由があるはずだ。一体、どんな理由があるのか、それを想像してほしい。

僕たちには〈死〉が必要で、それがなければ進化もなく、新しく生まれてくることもない。〈死〉は僕たちの日常の前提であり、誰かの〈死〉に支えられて僕たちの現在が成立している。〈死〉を怖れるあまり、もしも刹那的な生き方に駆られるとしたら、それは生き方が間違っているからだ。

もともと〈死〉は共同体のものであった。看取り看取られていたものであった。しかし、日本人の多くが生き方を間違っているので、おそらく世界の中で日本だけで孤独死が問題となっている。それは誰かを頼りにするのではなく、市場や行政ばかりを頼っているためで、何かあれば「国はどうなっている?」「経済政策はどうなっている?」と騒ぎ立てる。そういう人間が次々と孤独死していくのだ。自分が看取ったように自分も看取られ、そのようにして人類は何万年も何十万年もやってきた。誰もが受け入れてきたことを自分だけが怖れるというのなら、それは生き方が間違っているからだ。

〈死〉をクレンジングしてはならない。絶えず〈死〉を目撃して意識できる状態が望ましい。劇場版『鬼滅の刃』で煉獄杏寿郎が「人はいつか死ぬからこそ儚く美しい存在だ」と言ったが、子供たちがたくさんこれを観たのはとても良いこと。どうせ終わることがはっきり判るような環境で子供たちが育ち上がる方が良い。クレンジングされた環境で育った大人たちだけが屁タレになっていく。

自分と親しい人が死ねば悲しい。おそらくかなり古い時代、それはヒトが火の使用を始めた200万年前かも知れないが、死んだ人は何処に行くのかという最初の問いが生まれた。古い社会は垂直ではなく水平に他界を考えるので、あの山の向こう側、あの海の向こう側へ行ったと考えるようになった。それが宗教のルーツであり、必ずどの宗教でも〈死〉については明示的に言及する。

確かに〈死〉について意識するために宗教は役に立つ。だが、僕個人としては〈死〉の悲しみを解説してくれる処方箋として、子供に宗教を受け渡すことにためらいがある。昔は共同体で誰もが同じ宗教的共通前提の上に暮らしていたのだが、今は人それぞれまったく違う前提の上に生きており、両親からある宗教を受け渡された子供が、その宗教の内側で〈死〉の問題を解決したつもりでいても、後にその宗教を捨て去る可能性がある。その場合の責任が取れない。

だから、今の地球物理学、宇宙物理学の枠の中で、最も確からしいとされている仮説について話し、数多くの関連動画を見てもらう。例えば恐竜が大絶滅によって滅びていなければ今日の僕たちは存在していない。大絶滅は良いことなのだ。なぜなら大絶滅で生じた生態学的なニッチによって、進化の大爆発が起こり、今日の生態系があるのだから。過去少なくとも6回の大絶滅があったことが完全な定説となっている。だから、人類が絶滅したところで、別にそんなにあたふた狼狽える必要はなく、その生態学的なニッチによって進化の大爆発が生じるだけだ。なぜなら人間が最も地球の環境的な資源をオキュパイしてきたのだから、それが消滅してしまえば、地球上で僕たちが知らない様々な現象が起きることは間違いない。






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