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記録2

大学時代お世話になったY先輩とは未だに交流があり、時々メッセージをやり取りする。といっても大抵一方が気になる本や動画を送りつけて空いた時間でお互い確認し合う程度のものだが、時間が合う時は3〜4時間ガッツリ話す。先日もロシアのウクライナ侵攻の歴史的背景について聞いたら参考動画や書籍をメッセージとともに送ってくれ、その後近況を報告し合った。
卒業後も一時期シェアハウスで生活を共にしていたこともあり、お互いのダメなところも良いところも存分に知っている。親友と言っていいのだと思うが、違う言葉をあてがいたくなる。なんと言えばいいのか。ソウルメイトと言えばカッコつけすぎだろうか、だが確かに魂の部分で共鳴しているとしか言えないような妙な信頼感がある。変な言い方だが、僕は先輩の葬式には絶対に行くだろう。多分僕にしか弔えない先輩の部分があるから。

ウクライナの動画を見ていく中で、國分先生が関連動画を上げていることを知り、久々にVimeoを立ち上げてその動画を見た。ウクライナとマゾッホについての動画だ。ドゥルーズの『マゾッホ紹介』や関連論文を参照しながら彼の出生地が現ウクライナ西部の戦乱の地であり、その下で生まれた彼の作品に見られる、サド的近代的主体とは別様の在り方の可能性について語られる。現在のシビアな状況に対してロシアのウクライナに対する主権侵害は論外としつつもその上で人文学的知見から問題の別の相/層を析出しようとする。紹介された中には部屋の本の山に埋もれている『基礎づけるとは何か』(ちくま学芸文庫)もあったので掘り起こして読みたいと思う。
ついで以前ゲンロンで購入した2018年の東浩紀×千葉雅也対談を見た。マルクス・ガブリエル批判から思弁的実在論の紹介へ。メイヤスー、ハーマン、ブラシエ。アメリカン大学カイロ校。ポストモダン思想に対する二重の攻撃。ソーカルはじめ自然科学的方面からの批判とカルチュラルスタディーズやポストコロニアルなどの素朴な政治的主張においてポストモダン用語が使用され意味を簒奪されるという内破的攻撃。同時に90年代後半から00年代へかけてのドイツ観念論の凋落とイギリス経験論への移行、現在の英米分析哲学の台頭とその根幹にある自然科学主義的な方法論の無批判な採用など。何度か見たはずだが改めて見るとやはり都度発見がある。前半まで視聴して残りはまた次回とした。

最後に萩原恭次郎の『断片』から「詩に関する断片」を読んだ。プロレタリアの道、生活の道。プロレタリアの詩には何が込められているのか、何がプロレタリア詩足り得るのか。覚書の中にきらめく鋭い言葉の槍に突かれつつ、僕も一プロレタリアとして階級意識から免れないこの自分の生をどう詩の骨肉としていくか、考えさせられるとともに勇気づけられる。

僕はどのような言葉を遣いどのような者に訴えかけていくのか。取るに足らないと思われた者の取るに足らない言葉が最高の武器となる時がくる。

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