傍流音楽記②怒涛の青春パンク時代へ

「東京少年」は2001年に発売されたGOING STEADYの限定シングルです。「瞳を閉じれば聴こえてくるだろう 拳握った 少年の声が!」という歌い出し、特に「の声が!」の部分は、今後一生僕のテンションを上げ続けるでしょう。そのがむしゃらな勢い、峯田和伸氏による怒涛の日本語詩、溢れんばかりのエネルギーに僕は圧倒され、一発で虜になりました。早速レンタルCD屋に繰り出したものの取り扱われておらず、日曜に連れていってもらったジェームス山のサティでも取り扱われておらず、次の日曜日に連れて行ってもらった大倉山のサティで遂に発見することができました。その後、僕は給食の時間に「東京少年」を流してほしいとリクエストしすぎて放送委員から直々に怒られたのですが、説明は割愛します。

折しもこの辺りから、インディーズブームが始まります。モンゴル800がアルバム「Message」をリリースし、「あなたに」がCMソングに選ばれて空前のヒットを飛ばしたのは2001年の出来事でした。メロコア、スカコア、ミクスチャーなど様々な音楽ジャンルが気を吐いており、店頭には様々なイカしたデザインのCDが並んでいました。この時期にお世話になっていたレーベルは3つ、「魂」「DUSTBOX RECORD」「SCHOOL BUS RECORD」です。魂レーベルは中学生でも買える安価なスプリットを多数販売していました。「SPUNK」シリーズには日本のバンドのみならず海外のバンドが多数収録されていて「一体どうやってこんなCDを作るんだ?パンクスなのに英語が喋れて賢いのか!?」と恐ろしく失礼な感動を覚えたことを記憶しています。「ATTACK」「BREAK」「BREAK2」には多種多様なバンドが収録されていて、高知のMUSHA×KUSHAってバンドやばすぎる絶対見たい……岡山のソープランド揉美山これは何なんだ……東京のRetromaniAカッコ良すぎる……など全国のライブハウスに思いを馳せるきっかけになりました。SHACHIのメンバーが運営していたDUSTBOX RECORDは「JUNK」「JUNK2」というVAを出していて、SABOTEN、UP-WORD、NOB、OXYDOLなどグッとくるメロディアスなバンドを紹介してくださいました。SNAIL RUMPのメンバーが運営していたSCHOOL BUS RECORDは無料で壁新聞(!)を発行しており、その若干ふざけた内容が面白く更新を楽しみにしていました。この新聞からCHANGEUP、ネコベッドといったスカコアバンドを多数知れました。

やがて始まったのが「青春パンク」ブームです。「青春パンク」の定義は異常に難しく正直言ったもの勝ちなのではという気がします。僕は中学時代に「ブルーハーツっぽいか、ゴイステっぽいバンド」という無礼極まりない括り方を設定しており、それを未だに更新していません。この時期にものすごい量のバンドが活動しており思い出せるだけでもSTANCE PUNKS、The Rolling man、アカツキ、花男、ハイタッチルーキーズ、藍坊主、一寸法師、無許可、逆EDGE、マスラヲコミッショナー、マニラバ、THE SANYONS、クレインフライ、ジャパハリネット、HIGHWAY61、セックスマシーン、BE GREATなどなど、などなど、などなどを「青春パンク」だと思って聴いていました。特に喰らったのがガガガSPです。2001年に発売されたシングル「線香花火」を三宮のHMVで聴いた際の、こんなに切ない歌をこんなに荒っぽく歌うのかよ、という衝撃を僕はまだ覚えています。偶然にも僕はガガガSPが拠点としている神戸市の長田にある高校を目指しており、こんなすぐ近くにかっこいいバンドがいるんだ、と興奮しました。

「青春パンク」がらみで覚えていることがもう一つあります。当時「インディーズロックマガジン」という雑誌が発行されていました。全国のインディーズバンドのプロフィールが網羅され、代表曲が収録されたCDが付録についてくる夢のような雑誌で、インディーズバンドと定型のデータが大好きな僕は夢中になって読みふけっていました。その中に、編集長のイノマー氏が読者から送られてくる悩みを解決する連載コーナーがありました。大概はふざけた内容だったのですが、たまに思春期特有のどろどろした悩みが送られてくることがありました。あるとき「ゴイステとブルーハーツみたいなバンドが多すぎてゴイステとブルーハーツだけでいいと思っている。クソみたいなバンドが多いし、この世は本当にクソみたいだ」という投稿に対しイノマー氏が返した「クソみたいな世の中で嫌になるよな!でもさ、君もそのクソみたいな世の中の一部なんだぜ!」という回答は、ショックだったし、目が覚める思いもありました。いまだに厭世的になったとき思い出す言葉です。

人生で初めてライブハウスに行ったのも中学時代でした。当時神戸で活動していた倭製ジェロニモ&ラブゲリラエクスペリエンス(wajero)のライブに、友人とそのお母さまに連れて行ってもらいました。倭ジェロは全員スーツを着ており、ホーン隊を含むメンバーは多く、そして物凄く格好良かったです。ライブハウスすごすぎる、将来絶対経営しよう、と思いました。なぜか「バンド組もう」より先に「経営しよう」が出てきました。

たしかこの時期だったと思うのですが、中学校の遠足の帰り、バスの中でオリジナルのミックステープを流したことがあります。インディーズに全振りしすぎて誰も曲を知らず、車内が異様に沈鬱な空気になりました。静かな車内で僕は内心大いに焦り、震えあがり、やはり音楽は一人で楽しむに限る、というかなり間違った決意をしました。親と戦ってライブキッズになるという道を自ら閉ざし、より音源の収集に目をむけるようになりました。

こうして多数のコンピレーションアルバムと歪んだ自意識を獲得した僕は高校に進学することになりました。高校進学の際に親に買ってもらったのは、CDコンポでした。進研ゼミからもらったものとは格が違いました。なにせ、CDが同時に5枚も入ったのですから。

傍流音楽記③陰鬱高校生スクリーモと出逢う に続きます。

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