傍流音楽記③陰鬱高校生スクリーモと出逢う

高校への進学祝いはMDウォークマンでした。当時憧れていたシナリオライターさんが散歩中にセリフを機材に録音しているという話に憧れ、録音機能付きのものを散々ねだって買ってもらいましたが、結局一回も使わないうちに蓋がバカになってしまいました。

当時保有していたCDコンポにはMDに収録時間の4倍録音できるという謎の機能がついており(あれは一体何だったのでしょうか)僕は次々と約4時間のオリジナルベストを作成しては悦に入っていました。高校に入った途端に加速したのが洋楽熱です。中学時代はWEEZER、OFFSPRING、HELLOWIN、The Dillinger Escape Planとマイクパットンのコラボシングルなど、いささか脱線しつつもそこまでの熱はなかった僕をスクリーモブームが直撃します。FINCHの「What it is to burn」(2002年)The Usedの「The Used」(2002年)そしてMy Chemical Romanceの「Three Cheers for Sweet Revenge」(2004年)を狂ったように聴いていました。特にマイケミを死ぬほど聴いていました。高校生活をしくじっていた自分には「I’m Not Okay」が沁みに沁みました。今でも調子が悪い時にたまに口ずさみます。他にもコンピレーションアルバムでThursday、Thrice、Glassjaw、Boys Night Out、Matchbook Romanceあたりを履修し、うちの高校でこんなにスクリーモ聴いてるの俺くらいやろ、と悦に入っていました。誰とも音楽の話はしなかったのですが。

高校に入ってからは自分の携帯を持てるようになりました。二つ折りのガラケーには「ezweb」という検索エンジンが搭載されており、そこから全国のバンドが「魔法のiらんど」で作成しているHPを見まくっていました。当時発刊されていた「Jungle Life」や「People's Records」のフリーペーパーを入手してはそこに載っているバンドを片っ端から調べ、月末の携帯代を異常に高騰させて母から叱られたりしていました。一番印象に残っているのは、悲しい出来事ですが、NOBのベースボーカル鎌田さんが亡くなったニュースを目にしたことです。いつか絶対に観たかったバンドでした。人は突然いなくなってしまうのだな、と、茫然と思った記憶があります。

高校時代にはもう一つ運命的な出会いがありました。高速長田駅の上にあったTSUTAYAでレンタルした「ENTER THE BEAST FEST」という二枚組のコンピレーションアルバムです。地獄車、マイナーリーグ、LOYAL TO THE GRAVE、PULLING TEETH、UNITEDなど錚々たるメンツの中、僕を直撃したのがEDGE OF SPIRITの「Glare」からのENDZWECK「DESTINATION」という2曲でした。この部分がセトリとして完璧すぎて、何度も繰り返し聴きました。ENDZWECKについて調べる中で出てきた「出られるライブには全て出る」という言葉は強烈に脳裏に焼き付き、このような大人になりたいものだと強く思いました。ここで知ったのが「叙情派ニュースクール」という謎のワードです。ハードコアってなんだかよく分からないがすごい、一言ではくくれないジャンルなのだと圧倒された僕は、ハードコアっぽいCDを買い漁るようになりました。高速長田駅のTSUTAYAは一階がブックオフになっており(夢のような施設です)そこでEndzweckの前身バンドであるCABLEと、可燃引火のCDを買ったのを覚えています。いちばん印象に残っているコンピレーションアルバムはLAST ONE STANDINGのKIWAMUさんの追悼アルバム「KEEP HIS FRIENDS ALIVE」です。まず追悼アルバムというものがあることを初めて知り、収録されている曲の多彩さに驚き、そして一番最後に収録されていたLAST ONE STANDINGの曲が最高にカッコよくて泣きました。聴きすぎて音が飛んでしまい泣く泣く手放したのですが、いまでも定期的に聴き返したくなるCDでした。

全然イケてない高校生活を速くてうるさい音楽とともに何とか駆け抜けた僕は、大学進学を機に大阪で一人暮らしを始めることになりました。当時19才の僕には絶対にやりたいことが2つありました。baseよしもとでお笑いを観ること、そして、ライブハウスに行くことです。

傍流音楽記④関西ゼロ世代の洗礼 に続く

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