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映画「PERFECT DAYS」を観てきました。

もう映画館では、見ることはできないかもしれない。
そう思っていたヴィム・ヴェンダース監督の「PERFECT DAYS」を、映画館で見ることができました。
ヴェンダースを映画館で見たのは人生二度目。「ブエナ・ビスタ・ソシアルクラブ」以来です。

「ブエナ・ビスタ」を見た時、あまりに良かったので、ヴェンダースに興味を持ち、ヴェンダースについて書かれた文章をいろいろ読みました。「パリ、テキサス」や「ベルリン、天使の詩」といった代表作を見たのも、この頃です。

あのとき読んだ文章のうち、
たしか批評家の梅本洋一さんだったでしょうか。
「90年代はじめ、明らかに世界一の映画監督だったヴェンダースが、また素晴らしい作品をつくった」
そんなふうに、「ブエナ・ビスタ・ソシアルクラブ」を評していたのが印象的でした。

「PERFECT DAYS」は、
「梅本さんが今もいらっしゃったら、とてもよろこばれたかもしれない」
そう思わせるとても素敵な映画でした。

「PERFECT DAYS」
映画の一つの見方としては、何もない日常を「ていねいに、ていねいに生きること」の大切さを描いているように思えます。東京の公衆トイレを掃除する男の物語は、どこまでも日常的で、うつくしく整えられていて、生活の中に宗教を溶け込ませる日本人の感性を上手に表現しているように思えます。

ただ別の見方もあります。
「これほどていねいに生きている人は、本当の現実にはいない」
そういう人間を描くことで、「思考と現実の狭間」を描いたともいえるともいえるのではないか。

僕が映画を好きになり、毎週のように映画館に通っていた頃、フランスの映画監督フランソワ・トリュフォーの「海を見る」という映画を見ました。
おそらく僕が「現実にある物事を撮影して、『思考』を表現した映画」に初めて出会った映画です。

夏なのに、誰もいない砂浜。主人公の家の庭にテントを張って寝泊りする女性。彼女を家での食事に誘うと、食べ終えた後お皿を舐める。女性の様々な奇行を描きながら、「そんな女性はいない」「そんな海はない」を通して、それが「誰かの思考をあらわしたに過ぎない(嘘、虚構)」ことを、映画で表現しました。

時期としては、デジタル撮影の技術が出始めた頃です。
それまで映画は、「35ミリフィルムで、現実を撮影したもの」でした。それだけがルールだった。「フィルム」は現実に存在し、人や物事を撮影すると光がフィルムに焼き付けられ、その現実が遠く離れた僕らに届けられます。

けれどデジタルでは、それをビットに変換し、電子信号として記録する。この世界には、ないものになる。果たしてそれは映画と呼んでいいのか、そんな議論もありました。(デジタルが出てきて、この世界にないものを映画とし始めた頃に、アニメ映画の賞が映画賞に追加されたのは、そんな時代の流れだと思います。)
そんな時代の流れの中で「現実にあるものを使って、現実ではないもの ー 思考 」を表現した映画は新しく、僕に特別な肌触りを残しました。

そして、「PERFECT DAYS」。
あの頃の思考の映画は、逆説的にこの世界にあるもの(肉体と物事)で表現されました。あえてCGなど「そこにない虚構」をすべて排除し、この世界の現実にあるものだけを使って表現していた。


「PERFECT DAYS」は、東京の公衆トイレを掃除する男性の話です。食べ物を食べ、排泄をする。これ以上ない「肉体。現実」を表現している。素晴らしい「映画」であり、「現実」が強調されるからこそ、この映画は、「この世界に一度も存在しなかった現実 ー 思考。あるいは何かの理想」を強調して表現しているのかもしれないとも感じさせます。

最後、主人公の顔のアップで終わったのが、その象徴のように感じました。
さまざまな経験を経てそこに存在する主人公の表情は、その裏側に積もってきた記憶を表していたように思います。

長く書きましたが、
とても素敵な映画でした。
いい映画は、やはりいいです。見ると嬉しくなる。

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