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その7、福祉に必要なのは「自分の行動を疑える」人

自分の行動をいかに客観的にみれるだろうか。そもそも私がずっと言い続けている「福祉の再構築」という言葉を共に捉えて仕事がしたいなと思える「人」を語るのならば、「自分の行動を疑えているか」、その思考と行動が合わさっている人と仕事がしたいという話。①人は行動しかみない(みえない) ②働き手の生き方を問うリアリティさ 、と分けて書きたい。

①人は行動しかみない(みえない)

そりゃそうだ、と思うかもしれない。例えば注文を受けてから15分でオーダーを提供できた、システム開発の設計を作った、月間売り上げを何%アップさせたというようなKPIで示せる数字が少ないのが福祉の業界、特に介護や障がい分野。
言い換えると、人との関わりが仕事であるが故に正解がない。だからこそあえてこれらの現場において示せるものは「行動しかない」そして「行動を示すには思考を深めるしかない」。

「今の言葉かけは本当にこのタイミングでよかったのか」「もう少し待てなかったか」「自分ではなくあのひとであればどんな結果になっていたか」。この思考の積み重ねが行動に表れる。
人の暮らしに並走する私たちは、目先の数字ではなく、目の前の一瞬一瞬を、どんな想いをもってやり遂げていくか---。この姿勢にかかっている。(この姿勢については、その4、その言葉、その姿勢は目の前の人の「自立」につながっているのか に詳しく書いているのでそちらを。)

さて、この思考の積み重ねには痛みが伴う。なぜなら自分の行動、もしくはこれからの行動の意味をもう一度疑うという、不快な思いをするのを承知で、やってみなければいけないからだ。でも、人は行動しかみないという事実に向かっていかなければならない。

②働き手の生き方を問うリアリティさ

この業界でよく聞く声は「認知症のおばあちゃん大好き!」「ダウンちゃん(ダウン症のお子さん)可愛いよね」「子どもと遊ぶのが私の幸せ!」などという声。まあこの類いの表現に他意はないのだろうが、個人的には好きではない。どことなく、目の前の対象者を対象者としてみていないような気がするからだ。なんだか、この言葉を出している自分自身に酔っているような感覚さえしてくる。そして往々にして物理的に「声が大きい」人が多く、なぜだか他の人がなんとなくついていってしまう。
こうした「声が大きい」人と、その人に従っていればいいや、と他人に任せきりで自分の行動を省みない人たちが、大したことも成せないまま職場を去っていく姿を何度もみてきた。

さて先述したように、一瞬一瞬が勝負の現場において、相手に対して「可愛い」という感情なぞ必要なく、物的環境、身体の状態、精神状況、人との距離間、過去行なってきたことなど、目の前の対象者をいかに、客観的に観ることができるか、という視点が必要だと思っているからだ。福祉の業界で自分に酔っていない人ほど、この視点が深い。話をしていてもとても勉強になることが多い。


思考を重ね、不快であろう自分の行動を疑う行程を経て次につなげる力を持っている一握りの人が、この業界の質を保っているといっても間違いないかもしれない。

福祉は人との関わり。だからこそ、普段の思考の深さ・読みが行動にでるという、誰にでも出来る仕事ではなく、働き手の生き方を問う、実はとてもとてもリアリティのある仕事の一つだと思っている。(決してハードルをあげるわけではないが、有資格者が何が何でも良い、ということは違うことは確か。)

次回は、デンマークで最も印象的だった「人」に対する根本的考えについて。どうしたら思考が深まるのか、幼児教育の現場、若者の社会参画の機関へのインタビュー、そして老人福祉の現場で見聞きしたことを綴ります。

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このnoteは、2018年6月ごろまでの私の頭の中の備忘録です。
自身の生い立ちから有料老人ホームの立ち上げ・運営、
デンマークへの留学、「長崎二丁目家庭科室」の運営などから、
福祉の再構築という大きな問いへの小さな実践を残します。
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私、藤岡聡子については、下記記事を読んでみてください。
・灯台もと暮らし
【子育てと仕事を学ぶ #1 】藤岡聡子「いろんなことを手放すと、生死と向き合う勇気と覚悟がわいてきた
・月刊ソトコト 巻頭インタビュー
・soar
「私、生ききった!」と思える場所を作りたかった。多世代で暮らしの知恵を学び合う豊島区の「長崎二丁目家庭科室」
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