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[ 穴穴家電(その1)]~創作大賞2024応募作品

<あらすじ>
虚ろな日々を送る一人暮らしの主人公は壊れた電子レンジを買い替えようと、たまたまたチラシの入っていた「穴穴家電」なる店に向かう。何とか見つけてたどりついたものの常識外れの奇妙な店だった。
そして主人公はお店の奥にある「穴穴酒処」に足を踏み入れる。そこで出会う奇妙な人々との触れ合いを通して自分の存在価値を問い直す。そして失われた記憶と生きている実感を取り戻す。

                 一

 わたしが「穴穴家電」なるものを知ったのは一枚の朝刊の折り込みチラシだった。いつもならチラシなどというものは、即ゴミ箱行きと決まっているのだが、その朝は少々事情があってチラシを読まずにはいられなかったのである。

 事情というのはわが家の電子レンジで、よい歳をしながら独身暮らしのわたしには欠かすことのできない神器ともいえる重要な機械なのだが、昨晩突然ぷつんと音がするとスイッチを押してもうんともすんとも言わなくなり、おかげで近所のコンビニで買ってきたメンチカツを冷たいまま食う羽目になったのである。まだ買ってわずか二年なのだが、電子レンジというものはそんなにやわなのかと冷たいカツをくわえながら思わず蹴飛ばしてやりたくなったがそれも大人気ない。考えてみれば人間だって平均寿命はあっても、個体によって寿命は大きく違うのだ。いわんや機械である。買った翌日に火を噴くテレビだってあるだろうし、納車されたばかりの新車がエンストを起こす場合もあるだろう。二年もったというのは案外幸運かもしれん、などと考えながら昨晩は眠りについた。

 そして朝である。今晩は冷や飯を食うわけにもいかぬし、かといって料理など面倒くさいことをするつもりはさらさらないし、その技術もないので、電子レンジを買わなければならない。電気製品と言えば冬葉原と相場は決まっているが、一〇万や二〇万の品物を買うわけでもなし、たかが一、二万程度の機械を買うために往復一〇〇〇円を超える電車賃を払っていたら、冬葉原が安いとは言っても電車賃で相殺されてしまう。しかも時間もかかるわけでいかにわたしが暇だと言っても時間の無駄は金の無駄。結局損をすることになるのである。それなら近所の電気屋さんで買った方がよほど利口だ。といっても近所に電気屋さんなんてあったかしらとすぐには思いつかない。後で電話帳で調べようと思って何気なく朝刊を開いたら「穴穴家電」という名前のチラシが目に飛び込んできたのである。

 

〈穴穴家電。凄い!凄すぎる!まさに家電の穴場!穴穴家電をよろしく!〉

 

 大きな文字で書かれたその下に、商品が紹介されている。電子レンジはすぐに見つかった。安い。五〇円である。そんな、あほな。リサイクルショップか。はたまた一〇〇円ショップか。わたしは不思議に思ってチラシを隅から隅まで眺めたが、リサイクルや中古品ショップではないように思える。第一、電子レンジはバカみたいに安い値段だが、他の商品は必ずしも安いとはいえなかった、パソコン、五〇万円。いまどき五〇万円出してパソコンを買う客などいるのだろうか。その下には「破格の値段」と書いてある。そりゃ確かに破格だが。冷蔵庫一〇円。あのねえ。一口チョコじゃないんだよ。冷蔵庫だよ。モノクロテレビ二〇万円。アンティークショップか、ここは。モノクロテレビを好き好んで買うやつはいないと思うが。確かに希少価値はある。だからといって二〇万円てのはどうもねえ。留守録機能付き電話機、一円。

 ざっとカタログの表面を見てため息が出た。何とも滅茶苦茶な値付けである。広告の謳い文句「凄い!」というのはある意味当たってる。破格に高く破格に安い。

 いささか呆れかえって、カタログの裏面を見てわたしはさらに目を丸くした。

 

〈特価品コーナー! あなただけにお知らせします!〉


 あなただけにお知らせしますって、チラシにでかでかと書いて全然「だけ」になってないじゃないの。でも呆れたのはそんな些末なことじゃない。特価品と称して売られていたのは、ポルノビデオの数々だったのだ。というかポルノビデオのはずだ、というのは印刷されているビデオの表紙が何ともいい加減で公衆便所の落書きのような絵ではあるものの、何となく卑猥であったことと、表題が相当おかしいのだが一応ポルノビデオを連想させるようなものであったためわたしはそう判断した。例えば〈今夜も濡れていこう〉〈大きいことはいいことだ〉〈穴は濡れてこそなんぼのもんですばい〉〈びっしょりホテル〉、こんな様なタイトルが並んでいる。まあポルノビデオと判断して良いのではないだろうか。価格は何と一円で横に〈おまえさんも一発いこう!〉と書いてある。ちらりとチラシの下段に目を落とすと、〈当店のオリジナルビデオです〉と書いてある。どうやらこの店はポルノビデオも自作しているらしい。道理で奇妙奇天烈な店名だと思った。

 わたしは再びため息をつくとチラシを床に投げ捨て朝刊を読み始めた。大量の文字が不規則に並んでいる。ある文字は大きく、ある文字は小さく。恐らく多くの重要な情報がそこには記載されているのだろう。しかし毎度のことながら何度読み返してみてもさっぱり頭に入らない。きちんと読んでいるつもりなのだが、「あ」とか「い」とか文字が頭を素通りしていくだけで、何を言おうとしているのかまるで理解できない。トップ紙面が無理でもせめてテレビ欄くらいと思って新聞を裏返し、テレビ欄に目を移してみてもやはり数字と文字が「見える」だけで情報が何も伝わって来ない。いつからこのようなていたらくになったのか。新聞を定期購読しているということは、かつては読めたはずなのにいつから読めなくなったのか。そのうちにむかっ腹が立ってきて、いつものように二頁ほどめくったところで新聞をテーブルに叩きつけると、先ほど床に投げ捨てたチラシがふわっと宙に舞い上がった。そうそう、新聞なんてどうでも良い。もっと大事なことがわたしにはあったのだ。電子レンジ電子レンジ。確か五〇円だったな。冬葉原に行ってもそんな値段で売っているわけがない。チラシには書いていないが多分リサイクルか処分品だろう。何日持つか怪しいが、何せ五〇円である。捨てたと思っても惜しい金じゃない。それよりもこの値段なら現品限りに間違いないだろうから今日行かなければ早々と売り切れてしまうかもしれない。できれば開店と同時に行ったほうが良い。いや、案外開店前のパチンコ屋よろしく大行列ができているかもしれない。出遅れたらまずいぞ。

 わたしは時計を見た。午前九時だ。いつのまにこんな時間になったのか。六時半に起きたはずなのに無意識のうちに時間が過ぎている。チラシを見た。開店は一〇時だ。地図を見ると歩いて一〇分ほどのところにある。これはいかん。新聞と悪戦苦闘している暇はない。急いで出かけなければ。いつもだらだらと暇つぶしのような日々を送っているのだから、たまには朝駆けしないとな。人間やるときにはやらねばならない。

 わたしは皺だらけのシャツ、薄汚れたジーパン、よれよれの冬物ジャンパーといういつもの服装に急いで着替えるとチラシを鷲掴みにして部屋を出た。朝陽が瞼を叩く。冷たい空気が頬を切る。冬である。一応快晴である。わたしは目眩を覚えたが気を取り直し、そのまま駆け足でマンションの階段を降りて表玄関の扉を開け路地に出た。

 この辺りは高級とは言えず、かといって下町の風情があるわけでもないごく普通の住宅街である。鉄筋コンクリートのマンションと古びた木造住宅が乱雑に立ち並ぶ。わたしは路地を挟んで壁沿いに交互に立っている電信柱に身を隠すようにしながら早足でジグザグに進んだ。電信柱を見上げると鴉がいる。柱を転々と渡り歩く鴉。何となく今のわたしに似ているではないか、と考えると少し不愉快になった。そうやって目立たぬよう目立たぬよう最大限の注意を払いながら路地を進んだ。明るい時間帯に住宅街を歩くほど嫌なものはない。特に平日は辛い。朝からぼうっと家で過ごす退屈さには慣れたが、平日の外出には全然慣れない。いや永遠に慣れることはないだろう。何と言っても街を歩いている人間に慣れない。平日の日中だから歩いているのは大抵主婦である。老若は関係ない。買い物かごをぶらさげた子供連れの主婦が数人集まってあちこちで立ち話をしている。実にのどかで平和な絵図だが、わたしがその側を通るだけで空気が凍り付くのがわかる。主婦達のわたしを見る目がおぞましいものを見る目に変わるのだ。だからといって見られるのが怖いわけではない。見るのが嫌なのだ。子供連れの主婦が団子状態になって世間話をしているその光景が堪らなく嫌なのだ。絶対に見たくない。会いたくない。だからこうやって忍者のように電子柱に身を隠しながらつつつと路地を進んでいるのである。何、交差点を左に曲がって小さな路地を入り少し行ったところに目的の電機屋はある。すぐ近くだ。

 忍者技の甲斐あって、何とか恐怖の主婦軍団に出くわすことなく、目的地の傍まできた。車が一台やっと通ることが出来るような狭い路地に入ると左手に小さな月極駐車場があり、その先に「穴穴家電」はあるはずだった。わたしは看板を探しながらまたもつつつと前進したが、気がつくと大きな通りに出てしまった。チラシの地図を見ると大通りに出るまでの間に店があるはずで、あれ、おかしいな、と思って引き返すとまた駐車場に戻ってしまった。いったい何度往復しただろう。つつつと動いているものだから爪先が疲れてくる。しかしどこにも看板はない。というか、電機屋どころか薬屋も煙草屋もおよそ店がありそうな雰囲気の通りではないのである。もう一〇時近い。この様子では、行列ができているとはとても思えないので、それはそれで一安心だが、目的の電機屋さんを見つけないことには、わざわざ冷や汗をかきながら朝駆けしてきた意味がない。わたしは腓返り寸前のふくらはぎをさすりながら、もう一度駐車場からゆっくりと歩いてみた。今度はつつつではなくずずずと歩いてみた。

 おや? 音が聞こえる。いや歌だ。小さな音だが駐車場の脇を進むにつれて聞き分けられる程度に大きくなってくる。駐車場を過ぎて一軒の木造住宅を過ぎてさらに数歩歩くと今度は音が小さくなる。どうやら音は駐車場のすぐ隣にある木造住宅から聞こえてくるらしい。わたしは引き返すとその木造住宅をじっくりと観察してみた。どこにでもある平屋造りの一戸建住宅である。築何十年と経っているのだろう、壁の傷み具合から相当古い家に見えるが、面白いことに玄関に掛かっている表札が真っ白だ。空き家かしら、と思ったが、よく見ると玄関の扉が少し開いていて中から光が漏れている。まさかね。これが電器屋さんってことはないよね。ただの家じゃないの。しかしここを行き過ぎるとまた交差点に出てしまう。地図が示している「穴穴家電」の位置は確かにここなのである。

 わたしは思い切って玄関の傍まで行ってみた。すると例の歌の音量が次第に大きくなり、歌詞がはっきりと聞き取れるようになった。ラテン調の軽やかなリズムにのって曲が流れてくる。

「穴場だよう、アナアナ。穴場だよう、アナアナ。あなたを待ってますう、アナアナカデン――」

 やっぱりそうである。どうもここがあのチラシにあった店のようだ。

「穴場だよう、アナアナ。穴場だよう、アナアナ。あなたに会いたい、アナアナカデン――」

 なかなかノリの良い曲である。わたしはいつのまにか片足の爪先でリズムをとっている自分に気がついた。いやいやそんなことをしている場合じゃない。ふと時計を見ると一〇時丁度じゃないか。なんだかんだ言って一〇分の道のりに一時間もかかってしまっている。何たる時間の無駄。

 少し自己嫌悪に陥りながらわたしはわずかに開いた扉の隙間からまるで泥棒のように中を盗み見てみた。その瞬間に勢いよく誰かが扉を開けたので扉に額をしたたかぶつけたわたしは「いてえええええ」と叫びカウンターパンチをくらったボクサーのようにその場にへたりこんでしまった。

「へえい、いらっしゃい、いらっしゃい。穴穴家電ただいま開店。あれ、お客さんお早いですねえ」頭の禿げた丸顔のオヤジが怪訝な顔をしてわたしを見下ろしている。オヤジは藍色の作務衣を着込んでいて、染物屋の作業場から出てきたような身なりだ。電機屋に似つかわしくないがこのオヤジが電機屋の店長なんだろう。扉を全開放したせいで、先ほどまで控えめに流れていた音楽が、結構な音量となって家から通りに向かって流れていた。

「穴場だよう、アナアナ。穴場だよう、アナアナ。あなたを待ってますう、アナアナカデン――」

 阿呆のように口を開けてへたりこんでいるわたしに深々と頭を下げると、店長らしき禿頭のオヤジは家の奥に引っ込んだ。わたしはゆっくりと立ち上がりジーパンの土を片手で払うと恐る恐る家の中、いや店内に足を踏み入れた。

 一応電機屋さんである。

 普通の一軒家らしく靴脱ぎ場があるので一瞬、靴を脱ぐのかと思って下駄箱とスリッパを探したが、見当たらないのでそのまま土足で廊下に上がり左手を見ると一般住宅の居間とおぼしきフローリング仕立ての大部屋に雑然と電気製品が積んである。雑然というのは、普通なら映像製品、音響製品、白物家電など分類して陳列しているものだが、そういった規則性がまったくないからだ。かなり大きなスペースなのだが、真正面から見ただけでも左端には大型冷蔵庫、その上に小型テレビ、その上にビデオデッキ、その上に懐中電灯が積まれているし、右端を見ると洗濯機、その上に中型ワイドテレビ、その上に食器乾燥機、その上に髭剃り器らしきものが積まれているという、不規則極まりない陳列、いやこんなものは陳列とは呼ばない、羅列だ。正面から見ると三列構成になっていて、真ん中の列には褐色漆塗りの重厚な洋服タンス、その上に小型ステレオ、その上に電話機という具合に並んでいるが、そもそも何で洋服タンスなんてあるのかわからない。単なる陳列台に使用しているのかもしれないが、それにしては高級品に見える。

 わたしはその居間、いや売場をぐるりと一周してみた。窓がいくつかあるがいずれも真っ黒なカーテンが降りていて、朝だというのに天井の照明の弱々しい光だけが頼りである。裏取引で入手した骨董品を地下倉庫で物色するような怪しげな雰囲気があるが、目の前にある品物は全然怪しくない。左から見ても右から見ても表から見ても裏から見ても先ほどのような電器製品が無秩序に天井まで届かんばかりの高さで積み上げられている。時々、本棚や食器棚のような調度品があったり、コートや靴などの衣服さえ見かけるが、一体何なのか。電器製品が傷つかないように保護しているつもりなのだろうか。

「電子レンジはと……」

 そうであった。わたしは電子レンジを買いにきたのである。ゴミの山かピカソの絵かと頭がおかしくなるような商品の無秩序ぶりに感心している場合ではない。早く買ってつつつと家に帰らなければ、昼飯の支度で街に繰り出す主婦軍団と出くわしてしまう。ぞろぞろと兵隊のように列を成して行進する彼女らから身を隠すのは忍者とはいえ難しい。早く電子レンジを探すのだ。

 わたしはレンジ、レンジと復唱しながら、ゴミの山、いや商品の山をさらに一周してみた。だが見当たらない。もう一度、目を凝らしながら一周してみたがやはり見当たらない。ついでにおかしなことに気がついた。値札がないのである。いやそれだけではない。商品の名前すら書いてないのである。今さら気づくのもおかしな話だが、商品だけがそこにあるのだ。例えば大型の白い冷蔵庫がどんと目の間にあるのだが、普通は「XX製電器冷蔵庫 品番○○」という具合に名前が貼ってあり、多少の説明書きがあり、値段が書いてあるものだが、全然それらしき札が貼られておらず、ただひたすらどんと置いてあるだけなのである。もちろん大抵は製品そのものにメーカーのロゴがついているのでどこの製品かはよく見ればわかるが、製品の素性がさっぱりわからない。新製品なのか古い製品なのか、どのような機能がついているのか、高速製氷とか脱臭機能とか省エネ設計とか最近では色々とあるはずだが、そのあたりがさっぱりわからない。いやそもそもこいつは冷蔵庫なのか、という疑念さえわいてくる。冷蔵庫って書いてないのだから、もしかすると単なる小物入れかもしれん、そんな気がしてくるのである。

 わたしは冷蔵庫らしき物の前で思わず腕を組んで考え込んでしまった。そう考えてみると先ほど見たテレビも本当にテレビなのか疑わしくなってくる。ただの台なんじゃないだろうか。洗濯機も怪しい。大きなゴミ入れじゃないだろうか等々、疑惑は疑惑を呼びわたしは一歩もその場を動けなくなってしまった。

 そのときである。わたしの右肩をぽんと誰かが叩いた。

「ひいい」

 わたしは真夏の河原の焼け石を素足で踏んだ小僧のように何度か飛び跳ねるとその場にしゃがみこんだ。首を一八〇度回転させて後ろを振り返る。思わず頸椎が鈍い音をたてた。痛いがそれどころではない。恐る恐る目を上げると、先ほどの禿頭のオヤジがいた。口を尖らせ少し首を傾けながら不思議そうにわたしを見下ろしている。

「どうかなさいましたか」よく見ると立派な体格、骨太な顔の輪郭、鋭く光る目、禿頭とあわせて相当いかついオヤジだ。

「あ、あの、ここのご主人様ですか」わたしは小声で尋ねた。

「いかにもここの主人ですが」オヤジは首を傾げたままだ。顔に似合わずアイドル歌手のように甲高く若々しい声である。

 わたしはゆっくりと立ち上がった。やっぱり店主か。店主を何で「様」づけで呼ばなければならないのだ。わたしは客である。

「あのですね、ここは電器屋さんですよね、そしてわたしは客ですよね」憮然とした振りを装いながらわたしは強い口調で言った。ちょっと怖かったからいつでも逃げられるように、横目で出口を確認しておく。

「仰るとおりです。あなたはお客様。わたしは店主。それがなにか」オヤジはまだ首を傾げたままだ。変わったのは下向きだった顎が前に突き出ただけ。斜頸か、このオヤジ。

「それならよろしい」少し安心。「ところでここの商品には値札がついていないのだが」

「値札? それが何か」

「それが何かって、値札がなければ値段がわからんじゃないか。それに説明書きもないから、製品に関する情報もわからんぞ。まあ、一応チラシは持ってきたが」わたしはジーパンのポケットのチラシを鷲掴みにして取り出した。

 オヤジは作務衣の襟を正しながら、かかかと笑った。

「お客様、当店ははじめてですね。確かにお見かけしたことのないお顔ですね。当店では値段はお客様がつけるのですよ。わたくしどもがつけるのではありません」

「はあ? 客が値段をつける?」わたしの口はあんぐりと開いた、

「はい。そこの品物を見ていただいて、ふさわしい値段を付けて下さい。ふさわしい値段をね。わたしどもはお客様の言うとおりにいたします。あ、それとも、お客様は電器製品のほうではなく、あちらのほうをお探しで?」オヤジは、最後のほうになると急に声を潜めた。

「あちらって何だ?」

「あちらですよ。チラシの裏側」

「あ」わたしは例のポルノビデオの広告を思い出した。思わず顔が赤くなる。

「ば、ばかもの。わたしは好い年した大人だ。ポルノビデオなんて興味あるわけが」

「いやいや」オヤジが遮るように言った。いつのまにかそのいかつい顔が鼻先数センチのところまで近づいている。気持ち悪い。

「男はいつまでたってもアレが好きですからな」オヤジはまたかかかと笑った。

「違うんだ。わたしは電子レンジを買いに来たんだ。あ、そうだ。チラシにはあったけど、さっきから商品を探していたんだが、電子レンジがないじゃないか」わたしはオヤジの迫力に二、三歩後ずさりながら言った。

「電子レンジ? もちろんありますよ」オヤジは、ゴミの山の右手に回り込むと、山積みになった商品のおよそ中央部に積まれた小さな本棚の扉を開いた。すると本棚の中からいくつかの電器製品が現れた。その中に黒塗りの電子レンジがあった。

「あ。そんなところに」わたしは声を上げた。「隠してどうするんですか。売り物でしょうが」

「別に隠しているわけでは。何せこれだけのスペースに大量の商品を置いてますのでねえ。例えば……」

 オヤジは、奥に積まれていた〈ボーズ〉製スピーカーをゆっくりとゴミの山から引き抜いた。するとすっぽりと抜けた穴の奥からDVDプレーヤーが顔を出した。まるでからくり部屋である。

 何を考えているのだ、とわたしは呆れかえった。商品が見えなければどうしようもないじゃないか。いや、まあいい、電子レンジは見つかった。しかも相当上等な機種だ。チラシでは確か五〇円だったから、これが五〇円なら超お買い得だ。わたしは電子レンジさえ買えば良いのであって、このおかしな店にこれ以上つきあう気は無いのだから。

「なるほどねえ。ところでこの電子レンジはいくらだっけ」わたしはオヤジの行動を無視してさりげなく聞いてみた。オヤジはまた首を傾げている。

「さっき言いませんでしたっけ。お客様が値段をつけるのですよ。わたしに聞かれても困ります」

 ため息が出た。

「ああ、そうだった、そうだった。ええと、チラシでは確か五〇円だったなあ」わたしはそう言うとオヤジの顔色をちらりと伺った。いいや、あれは印刷の手違いで実は五万円なんです、などと言いかねないと思ったからだ。だがオヤジの反応はわたしの予想を裏切った。

「チラシ? 五〇円? ああ、そう書いたかもしれませんね。でも、そんなことは問題ではありません。お客様次第なんですよ。その電子レンジにふさわしい値段をつけてくれれば良いのです」

 うむむ、そうきたか。わたしは内心困ったと思った。自由に値段とつけろと言われても、それはそう簡単なことではない。重厚な黒塗りの電子レンジに目をやった。電子レンジの外観から判断する限り、二、三万はする製品と思われる。自由な、ということになると一円でも良いわけだが、それでは余りに非常識に思えてきて、とてもそんな値段をつける勇気はない。かといって二万円というのなら、わざわざチラシを見て飛んできた意味がなくなってしまう。一万が適当なのか、五〇〇〇円が適当なのか、第一わたしの値段のつけかたによってはこのいかつい禿頭オヤジがぶち切れるかもしれない。背は高くないががっしりした格闘家タイプの体格だ。喧嘩になったら柳か糸こんにゃくかというようなひょろひょろしたわたしがかなう相手ではないし、喧嘩というものは例え口喧嘩であっても避けたい気弱な性格なのだ。ずばりいくらって言い切ってもらったほうがずっと気が楽なのだが、このオヤジはわたしに任せるという。ああ、困った困った。

「いくらになさいます?」オヤジがまた鼻先数センチまで顔を近づけてきた。

「うううううううう。ああああああ。どうしようかなああ。いくらにしようかなあ」わたしは冷や汗を垂らしながら考えた。一番無難な方法、無難な方法。「ああ、そうだ。やっぱり五〇円にしておきます」わたしは閃いた。五〇円ならチラシに書いてある以上、オヤジも逆らえまい。値を自分からはつけないと言いながら、チラシではつけている。この値段を選択するのが一番無難だ。もっとも五〇円という金額自体は全然無難じゃないが。

「五〇円?」

 オヤジはしばらく考え込んだ。無表情である。不愉快な値段なのか。ぶち切れるつもりか。背筋がぞくっとした。わたしはいざとなったらチラシをばっとオヤジの目の前に突きつけようと身構えた。しかし。

「毎度ありい。五〇円にて落札」オヤジはニコニコして言った。そうしてわたしから五〇円受け取ると、電子レンジを指さして言った。「申し訳ないですが、当店では梱包しませんので、そのままお持ち帰りになってくださいませ」

 わたしはほっと胸を撫で下ろすと、本棚の中からお目当ての商品を取り出し小脇に抱えると居間を出た。出る瞬間にオヤジが呟いた。

 「お客様って四角四面な人ですね。チラシにこだわらなくて良いものを」

 わたしの心に少し引っ掛かる物があったが、まあ良い。目的の品物は手に入れたのだ。しかも破格の安値で。この気味の悪い店はさっさと立ち去ろう。

 そう思って小走りに居間から廊下に出ると、並ぶようにして居間を出たオヤジが廊下の反対側の奥に消えていこうとする。わたしはレンジを小脇に抱えたまま、その後ろ姿を目で追いかけている内に、廊下の奥の薄闇に妙なものが見えたような気がして足を止めた。何か暖簾のようなものがぶら下がっているのである。オヤジはその暖簾の向こう側に消えていった。

「なんだ? 何の暖簾だ?」わたしは気になって仕方がなかった。一刻も早くここを立ち去りたいという思いと、あの暖簾になんて書いてあるのかを確認したい好奇心がぶつかりあった。そして好奇心が勝った。

 わたしは廊下の奥に向かってゆっくりと歩いていった。暖簾の文字が確認出来るまで歩み寄っていった。そしてようやく文字を判読できた。


 

 〈穴穴酒処〉

 

 そう書いてある。酒処だって? そういえば暖簾の奥から何やら人の声が聞こえてくる。ここの家の家族か? 昼飯の時間が近いから食事の支度か? それにしてもなぜ暖簾がかかっているんだろう。これじゃまるで食堂か居酒屋かとにかく食い物の店みたいじゃないか。いや、しかしそんなことはどうでも良いのだ。早く帰らないと主婦連中の怒濤の攻撃にあってしまう。時計を見ると一一時を回っている。まずい。もう時間の余裕はない。わたしは踵を返して玄関の方に歩き出した。すると背後から声がかかった。

「お客様、この暖簾が見えるんですか」

 オヤジの声である。わたしは振り返った。オヤジが暖簾から顔を出している。

「はあ? もちろん見えるよ。何だい、その酒処ってのは」

「ほう、見えるんだ。お客様には」オヤジは暖簾の脇で腕組みしながら感心したように言った。「なるほどわかりました」

 既に靴脱ぎ場近くまで来ていたわたしが振り返るとオヤジが手招きしてわたしを呼んでいる。

「お客様、まあそう急ぎなさんなって。いらっしゃいらっしゃい! 穴穴酒処へ。美味いよ。破格の値段だよ」そう言ってオヤジは廊下の奥から盛んに手を振る。

 迷った。時間にしてわずか数秒、いやコンマ数秒かもしれないが、激しい葛藤がわたしを襲った。理由はわからない。行くべきだという思いと、絶対に行ってはならないという思いが真正面からぶつかりあった。そしてわたしは踏み出した。暖簾の方向へ。決心してしまえば後は簡単だった。廊下を小走りに進んで暖簾を片手で払いのけた。小脇には五〇円の電子レンジ。揺れた暖簾が軽く鼻を撫でた。



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