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外人Xオタク

多分だけど、生真面目な人ほど人生に裏切られるんだと思う。つまり昔の僕はクソ真面目な上にとてもナイーブだった。そもそも正義感が強かった僕は、「正しい人は必ず報われる」と考えていた。勉強や努力だけでは人生やっていけないのだと知った時はもう遅かったんじゃないか。

外人というのは日本にのみ存在するものではない。つまり別の国から来たよそ者は結局みんな「外人」として生きていかなければならないのだ。そういう僕は日本人として海外に住んでいるが、僕から見ても自分は「外人」なんだと思う。
海外に住んでる日本人は少なくない。僕が住んでいる街にはとくにわんさかいる。昔からに住んでいるこの国の文化に未だに馴染めない僕は、なりゆきでほぼ日本人(そいつらもいわゆる「外人」)としか遊ばなくなった。だけど現地の学校にも通っているし、「ここ」の人と関わりを持つしかなかった。
勉強をずっと頑張ってきた僕はそこで初めて障害物に当たった。クラスメートとも、先生とも、気が合わないのだ。いくら頑張って成績が良くても人とのコミュニケーションは大事であって、それなしじゃどこでだってやっていけない。僕は受け入れられたかった、もっと賞賛されたかった、外国人であることなど関係なしに見てほしかった。
だから、一時期僕は「道化」を試みた。現地の人みたいに振舞っていれば、いつか受け入れられるのだと思っていた。だけどそれは所詮モノマネに過ぎなかった。

「自分は自分でしかない。」
「自分を変える必要なんてない。」
「下手なモノマネをするより自分の長所を磨いたほうがいい。」
それが僕の出した結論だ。

オタクへの道

といっても、クラスメートなど身の周りの人と気が合わないのってなかなか寂しいことで、友達が少ない僕は何となくアニメやゲームにのめりこんでいった。エロゲーとかに手を伸ばした時にはもう手遅れ、僕の堕落は完了したのであった。
というわけで「沙耶の唄」や「さよならを教えて」をプレイしたり、まどマギにハマったりして、どんどんオタク界の深淵に沈んでいったわけだが、そういう作品に僕は救われたのだと思う。
例えば、「沙耶の唄」では主人公は脳の障害によって見える世界が周りの人と違う。彼から見たら世界はグロテスクで、汚くて、見ているだけで気持ち悪い。だけどそれは本当に病気と言えるのだろうか?だって人々はみんな実は見える世界が違うのだから。まったく違う世界が見えるのに、周りに溶け込むために道化をしてるだけだ。「この人は僕と同じ世界が見えるんだ」という共感性を感じたいだけで、本当は自分に嘘をついていると、僕はそう思う。
そうやっていろいろ考えさせられ、自分の考え方を変えてくれるから、エロゲーはやめられない。(笑)

つまり「自分らしく生きる」ことは、最大の正直なのだ。何を言われたって僕は自分のアイデンティティを捨てる気なんて微塵もない。そんなことをしたらただの嘘、ピノキオみたいに鼻が伸びるだけだ。不幸になるだけだ。

結局何が言いたいのかというと、ナショナリティ(国籍とかの法律上のナショナリティではなく、自分のアイデンティティをどの国に結び付けるかという、感覚的なもの)とかそういう束縛にとらわれず、自分らしく生きるべきだということ。
だから僕は外人にしてオタクだ。後悔なんてこれっぽちもない。

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