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『君生き』〜眞人は母を愛していなかった!?〜 (無修正ver.)

『君たちはどう生きるか』を巡る様々な言説、「炎に巻かれて焼け死んだ母を助けられなかった息子(主人公)のトラウマ」が当然のように前提されてるけど、あまりにも注意力と慎重さが足りないのではないか?
意味論的な解釈に進む手前で映像を虚心に読む限り、これらはけっして自明の要素とは言えない。
そもそも「トラウマとはなにか」「人が病む/治るとはどういうことか」など、一度でも真剣に考えたことがあるのだろうか?
批評うんぬん以前に、人間としての軽薄さ・軽はずみさが他人事ながら心配に思われてくるほどだ。
実際、『君生き』の映像を野生の目で見るなら、冒頭の母の死と主人公のトラウマのフラッシュバック(と無前提に考えられているもの)の場面には不自然な点がいっぱいあるのだ。
鋭敏な観客であれば、見ていて非常に奇妙なものを感じたのではないだろうか?
大きく3つの違和感。
①いや父が止めんのも息子諦めんのも早くない!?問題
②トラウマ形成に必要な“落差”の描写、愛する母との幸福な日々&その喪失=まさに死を迎える瞬間の無残な母の姿の両方とも全く出てこなくない!?
③フラッシュバックって言うには一回ちょろっと思い出すだけじゃない!?
後でそれぞれ検討するけど、結論はこう。
「映像を虚心に読むなら、母の死は主人公にとっても父にとってもさしたる衝撃を与えず、トラウマを形成するには至っていない、と判断するほかない。
もっと言えば、そもそも主人公&父が亡くなった母を愛していたという映像的な証拠はどこにも見当たらない」

トラウマの形成→発現を表現する型は決まっている。
①愛する者との離別
····主人公が「どんなに彼・彼女を愛していたか」「ともに過ごした日々がどんなに幸福だったか」と「離別がどんなに不可避的で理不尽あるいは暴力的なものであったか」が充分に描かれそのエネルギー差が明らかにされる必要がある。
②状態変化
·····そしてなにより、①のショックにより「主人公がどのように変わってしまったか」を明らかにするため、その前後の状態の相違が描かれなければいけない。
③トラウマの性質である反復回帰を代理表象するためのフラッシュバック表現
·····トラウマはそれ自体ではネガティブなものでもポジティブなものでもなく、意味がない。なんらかの心の傷がトラウマになっていると同定するに足る根拠は「何度でも同じ形で同じ場所に」「回帰する」無変化性と反復性にある。
つまり、トラウマはけっして変質することなく幾度も回帰する頑ななまでの執拗さそれ自体においてのみネガティブな意味を持つ。逆に言えば、容易に変質したり反復しない種類の精神的ショック、心の傷はトラウマとは言えない。この点は非常に重要だ。

したがって、トラウマを主題に持つ映像作品において多用されるフラッシュバック技法(過去の回想=先に映し出されたショットの再挿入)は、不変性と反復性というトラウマの二つの性質を正確にトレースする表現だと言える。
なぜならフラッシュバックは一度フレーム内に登場したショットがそのままの形で流用される(トラウマの不変性)ことで機序を得、同様の演出が数度(最低でも2度、多くは3度以上)繰り返される(トラウマの反復性)ことによって、特定の方向性を持った意味の連関を遡及的に作り出す技法だからだ。
「特定の方向性を持った意味の連関」とは言うまでもなくトラウマの形成とその発現というそれぞれに独立した因子が、不変性と反復性という二つの性質の開示によって初めて結び付けられ「たった今フレーム内で過去の回想を行っている(フラッシュバックの起点となっている)人物は精神的なトラウマを抱えている」という明確な意味を形成することを指すが、それが「遡及的」に為されるというのは、トラウマを巡る一連の表現においては手がかりが提示される順番が転倒するためだ。
それはほとんど必ずトラウマの発現(観客に明確な意味が伝えられることが意図されていない、なにか恐ろしいイメージの断片の不意の訪れ)によって始まり、、幾度も反復(フラッシュバック)されその恐怖を強めることによって解かれるべき謎へと成長し、最後にトラウマの形成の内実が明らかにされる(基本的には、幼少期に抑圧された忌まわしき記憶の開示)ことによって解決され、収束を得る。
つまり、トラウマを巡る表現はその生成過程を遡行する=物語上の時間軸を逆に辿ることによってのみ成立するのだ。
以上がトラウマの形成とその発現という主題を映像作品において構成するために必要不可欠な要素である。
したがって、『君たちはどう生きるか』という作品がトラウマの形成とその発現という主題を持っているか否かを判断するためには、これらの構成要素が作品内に現に含まれている否かを検証してみればよい、ということになる。

結論は明らかだ。
『君たちはどう生きるか』という作品は「トラウマの形成と発現」という主題を構成するために必要不可欠な要素をまったくと言っていいほど持っていない。
したがって、この作品は「母の死による主人公のトラウマの形成と発現(とその病理からの解放)」というテーマを描いてはいない。
それどころか映画に書かれていることのみを素直に読み取った場合に浮かび上がってくる意味、本作が現に我々に提供している“事実”は「愛する母(妻)の死がその息子と父に精神的なショックをもたらし、息子の心中にトラウマを形成するに至った」という一般に信じられているストーリーとは真逆のものだ。
映像において現に語られている意味から推察される『君たちはどう生きるか』の真実のストーリーは「母(妻)のことを息子と父は心から愛してなどいなかったた。したがって母(妻)の死は彼らにトラウマをもたらすどころか、無意識に望んでいた状況を招来する都合のいい出来事として受け取られている」というものだ。
『君生き』の主人公のトラウマの本当の内実は「母の死による悲しみ」ではなく「母の死をなぜか悲しむことができなかった自己に対する不信と戸惑い」であり、彼が苦しめられているのは「わたしは(父と同様)本当は母を愛してなどいなかったのではないか?」という恐るべき無意識の真理への懐疑なのだ。

とすれば、ずっと引っかかっていた「なぜ主人公はケンカの後に自らこめかみを石で殴打し、大量の血を流すのか?」「あちら側の世界の創造主の役目に自らがふさわしくない理由として主人公はこの一事を挙げ(正義ならざる行いに彼が手を染める場面はここしかない)、嘘をついた、罪を犯したから、などと言うが、①石で自分のこめかみを殴打する、②そのことを父親に隠し「転んだ」と嘘をつくことが、はたして映画中のクライマックスを成す最重要の決断を左右するほどの罪なのだろうか?そもそもなぜ実直を絵に描いたような主人公がそんな愚かで動機不明のふるまいに及ばねばならなかったのか?」という謎が解ける。
あれは「母の死を悲しむことができなかった自己の罪」に対する無意識的な懲罰の仕草だったのではあるまいか?
もしそうであるなら、父親にも誰にも説明をつけることができないのも当然だ。あの尋常ならざる量の出血は、十字架上のイエスのそれと同様に眞人にとってこの行為が贖罪を意味していることを表すために必要とされたのだろう。
主人公をして創造主の地位にふさわしくないと罪の意識を感じさせている、物語中で最重要の決断に関わるもっとも罪深い「嘘」=トラウマとは、「本当は愛していなかった母を愛していたと思い込みたいがために、自己を偽り続けてきた」ことを指していたわけだ。

したがって、主人公のファンタジー世界の経験はラカンの言う「ファンタスムの横断」ではなく、まったく逆に、「母を愛していなかったためにその死を悲しむことができない自分」という忌むべきストーリーを幻想の中で書き換える「トラウマの再抑圧」の過程である可能性が指摘できる。
以上は穿った見方だろうか?
そうではない。逆だ。一般に流布している解釈(様々な解釈を可能にする前提要素として当然のように信じ込まれている点においてそれが「解釈である」ということすら見落とされている原解釈)の方が映画に描かれていないことを勝手に読み込んだ妄想であり、穿った見方なのだ。
これは先行するほとんどすべての解釈の前提として使用されている物語把握の認識を打ち砕くことによってそれら解釈を不成立のものへと追い込みかねないという点において、同時並列的で論理的な優位差を欠いた無数の解釈群の上位ないしはメタレヴェルに立つ現状唯一の「より本質的な解釈」であると言えよう。
したがって本ツリーで僕が示している解釈は具体的な反証の提示によって複数の人々からよってたかってなんとしてでも否定されなければならない(笑)
これは『君生き』についてなんらかの解釈を示した者すべての威信に関わる極めて重大な問題だからだ。
だがしかし、「具体性な反証の提示」がはたして可能だろうか?

というわけで、以下具体的に検証していこう。
冒頭で挙げた3つの違和感を再び繰り返す。

①息子と父が母(妻)を愛していた&幸福な日々を送っていた描写が皆無。
②焼け死ぬ母の救出を断念する息子も、それを静止する父も、トラウマの形成を描くためのドラマ演出としてはありえないほどあきらめが早い。
③主人公のトラウマっぽい回想が執拗に反復されず(フラッシュバックの不成立)、一度しか登場しない。

(ここまでの記述においてもそうだが、特に以下では筆者の記憶違いによる事実誤認が散見される可能性がある。よろしくご教授願いたい。といっても、本稿の主張が覆るほどの決定的な誤謬が見つかることはまずないだろうが。)

①について
·····『君生き』では「息子と父が母(妻)を現に愛していた描写」が皆無だ。それどころか「優しかった母の面影」「まひと、と笑顔で呼びかけてくれる母」「母と息子の間で交わされた忘れがたく印象的な会話(多くが物語のクライマックスにおいて主人公の再起や奮闘の動機を形作る“名言”を含む)」といった典型的な映像の提示すら絶無なのだ。そもそも生前の母の顔や姿や性格はまったく映されないのだ。
トラウマうんぬん以前に、家族愛をテーマとする映像作品において、こんなことは通常ありえない。
これはやはり僕の記憶違いないしは見落としなのだろうか?(そうであってほしい、とすら思う)
もうこれだけでQ.E.Dとしてしまっていいように思えるほどなのだが、検証を続けよう。

②について
·····冒頭、母の死による主人公のトラウマを観客に印象づけるための“衝撃的な場面”として描かれるべきはずの一連のシークエンス。作劇の都合上、ここでは最低限「必死に助かろうとする母」「必死に助けようとする息子と父」の姿が描かれる必要があり、多くの場合はさらに両者の間で「助けようとしたが/やむにやまれぬ事情があり/ぎりぎりで助けられなかった」という駆け引きが演じられ、数瞬先に待ち受ける生と死二つの可能性の間に挟み撃ちされた状況が極度に圧縮された時間の中に宙吊られる(suspend)ことによってサスペンスの緊張感が醸成される。
「それそのもののディテール」が持つ迫力や存在感を直接に提示可能である点に利点を持つ映像メディア、特に実写映画は、こうしたサスペンスの極限の高まりにおいて、人間の顔を存分に捉えることだろう。助からなかった者の絶望の顔、悲鳴、断末魔、あるいは勇敢な犠牲の言葉。助けられなかった者の悲愴な顔、嗚咽、神への呪詛。
本作においてはどうか?
ない。いずれもない。皆無だ。
危機的な状況は生と死の可能性の間で挟み撃ちにされないため、サスペンスの緊張を生まない。見せ場を構成しトラウマの成立を印象づけるはずの人間の顔の鮮烈なイメージもない。「まさにその瞬間」の父の顔も息子の顔も、同様に記憶に残らない。
母の顔に至っては、死の間際の表情はおろか、平生の姿すら一度も捉えられることがない。
驚くべきことに、本作ではドラマを構成するために必要不可欠な「まさにその瞬間」が存在しないのだ。
存在しないものをつい見た気になってしまうのは、無意識のうちに物語をパターンに当てはめて理解するわれわれ観客のありがちな思い込みであるに過ぎない。
なぜそんな物語失格の状況になるかと言えば、病室で炎に巻かれ今まさに死を迎えようとしている母(妻)を救出する意志が、父・息子ともに妙に希薄だからだ。まず父は息子を玄関先で制止する。早い!息子は病院に辿り着き母と再会する前に救出を諦める。おいおい·····。これではドラマが生まれる余地がない。
それなりに長く生きてきて、筆者はこれほど間の抜けたサスペンス演出を見たことがない。まずもって、状況が明らかでない(助かる見込みが大いにある)離れた場所で危機に陥っている母の救出に向かう息子を玄関先で止めるのはありえない。止めるにしても、あのかっこつけたがりの父ならきっとこんなふうに言うはずだ。
「まひと、おまえは家にいなさい。お母さんはお父さんが必ず助ける」
瞬時にキムタクの声で再生可能ないかにもなセリフではないか!ところが、どういうわけかここ一番という時にあのキザな父親はあっさり救出を放棄してしまうのだ。
一方で、玄関先で他の大人たちと話していた父は病院内が絶望的な状況にあることを知っていた、という線は考えられるだろう。だがそれにしたところで息子の諦めの早さ、場違いなものわかりのよさは説明できない。せめて病院まで辿り着け!やる気ないんか!ポーズなのかよ、おまえの走りは!
要するに一連のシークエンスは「助けようとしたのに/やむにやまれぬ事情があり/ぎりぎりで助けられなかった」というものになっておらず、ほとんどいかなる種類のドラマも構成してはいない。母の死、母と息子の離別には、せいぜいのところが単なる状況説明、「ここまでのあらすじ紹介」ほどの意味付けしかなされていないのだ。
「この場からあと一歩でも進めば自身も炎に巻かれて命を落としかねない」「決死の覚悟で病室内に飛び込んだ瞬間炎に包まれた梁が落下してきて互いのいる空間が物理的に分断される」「まひと、わたしのことはいいから逃げて」などの「やむにやまれぬ事情」はどこにも見当たらず、そのために「ぎりぎりで助けられなかった」という後悔が兆す余地すら生まれない。
だって全然「ぎりぎり」じゃないんだもん(笑)
要するにこういうことだ。
映像を読む限り、「父と息子には母(妻)を本気で助ける気がなかった」と判断するほかない。
少なくとも映像表現のレヴェルに限って「わが命を捨ててまでも!」という必死さは表出されておらず、トラウマ形成の前段階としての愛情に満ちた関係の存在は微塵も確認されない。むしろこのように考える方が妥当だろう。父と息子と母(妻)の関係には、トラウマ形成の今ひとつの要因たる確執があったのだと。

③について
·····勘違いされがちだが、精神分析学で言うところのトラウマ(心的外傷)は「幼少期のショックな経験の記憶」それ自体を指すのではない。一度目には(主に幼少期の父母との関係において)なんてことのかい些細な出来事として感じられていたものが、二度目に(多くが成長して大人になってから)似たようなシチュエーションが偶然周囲に形作られた際に、一度目の経験がショックを与えるものとして新たに呼び起こされ、心的外傷として再発見された時点において初めて成立する“構造的反復”のことなのだ。
これまた誤解されがちだが、一度目の経験(トラウマの形成)のほとんどは患者自身にすらそれが心の傷になり得るとは到底信じられない、なんてことないささいな出来事として感じられている。それは二度目の経験(トラウマの発現)において初めてネガティブな性質を明らかにするのだ。
二度目の経験(反復)はいわばアナフィラキシーショックのように、一度目の経験がそれまで持っていた穏当な意味を変質させ、全体をある特定の方向性を持ったイメージのまとまりとして新たに組織する。トラウマは時間軸を過去に遡ることによって発芽し、反復されることによって構造化するのだ。こうした特徴は先に見たトラウマを映像的に代理表象するフラッシュバックに正確に対応する。
ちょいと余談。
「二度目の経験は一度目の経験の意味を変質させる」と書いたが、このことは「一度目の経験においては明らかにならなかった(抑圧されていた)真実の意味(無意識の真理)を明らかにする」とも言い換えられる。問題はまさにこの点で、初期精神分析はもっぱら後者の意義を強調してきたわけだが、もし前者の方がより実態に近いとするなら、事態は大変あぶなっかしいものになりかねない。
なぜなら、トラウマの発現(二度目の経験)がささいな過去の出来事にトラウマの形成(“一度目の”経験)という意味を後から付け加えるなら、それはほとんど改竄や捏造と見分けがつかなくなってしまうからだ。とすれば、分析医は患者とともに、時にそれを誘導する形で、存在しない病を作り出していることになってしまう。
実際、精神分析的な世界観の中に生きる者の一人としてはたいへん残念なことに、分析医または医師がありもしない病を患者のうちに読み込み、存在しない記憶や症状のストーリーを作り出すような例は数多く起きている。顕著なのは多重人格障害の同定に関わる“誤診”だろうが、こうした例は被害の大小を含めれば実に枚挙に暇がない。
以上は余談に過ぎないが、われわれが学ぶべき教訓も含まれている。というのも、精神分析における治療は良くも悪くも映画の観賞体験と近しい構造を持っているからだ。分析医を観客に、患者を映画に置き換えてみれば一目瞭然。
「観客はありもしない病を映画のうちに読み込み、存在しないストーリーを作り出す」
ある作品を見る時、われわれはそこに自分が見たいものだけを見たい姿で見る。自らの欲望や葛藤を投影してしまうわけだ。換言すれば、観賞体験には、作品や作家のうちにありもしない病の存在を発見し創造することによって、自身の病を慰撫せんとする無意識的な自己治療として機能している側面がある。他人が作った作品を自身の病や欲望の口実に使ってしまうのだ。
おわかりだろうか?
われわれは分析医の誤ちに学び、映像を正確に見る=「映画に書かれていることを書かれているとおりに読む」、逆に言えば(こちらの方が遥かに困難なのだが)「映画に書かれていないことは読まない」訓練をする必要があるのだ。さもなくば、思い込みによって患者に仕立て上げられた者たちの悲劇は永遠に止むことがないだろう。

本作において一般に「トラウマのフラッシュバック」として考えられている表現を見てみよう。
それは主人公の眞人が夏子の屋敷に泊まって初めての晩にベッドの中で見る夢の主観ショット(登場人物が見ているものを観客に見せ感情移入を促す)とその様子を見守る夏子の姿によって構成されている。
夢の中で眞人は炎に包まれる母の姿を見て涙を流す。と書くと立派なようだが、やはりこのシーンの印象も奇妙に薄い。理由は明白で、キャメラが特別の興味を持って母の顔を捉えないためだろう。加えて、幸福な過去と離別の悲惨さ、いずれも全く描かれないためにその落差による衝撃的な効果も生じ得ない。
しかもなんとこの“トラウマシーン”はたった一度しか登場しない。トラウマとフラッシュバックが反復という特徴をほとんど絶対条件に持つことを考えれば、よほどのド下手でもない限り、こんなことはありえない。もし本当に宮崎駿が「母の死による息子のトラウマ」を描きたかったのだとすれば、の話だが。
つまり、「眞人が母の夢を見て涙を流す」シーンはトラウマを表象しておらず、なんならフラッシュバック技法であるとすら言えない。
なぜなら、眞人は母が死ぬ時の姿を、「まさにその瞬間の顔」を見ていないのだから!
見ていないものを思い出すことはできない。したがって正確にはこれはフラッシュバック=回想シーンではなく、「母の最期をなんとなくふんわり想像してみた」場面であるに過ぎない。なるほど母の顔がおぼろげになるわけである。

が!
映画における場面がどのように演出されているかという観点をすべて捨象し(そんなことをしたら映像が持つ意味が変わってしまうのだが)、「いかにもトラウマになりそうな出来事の経験」と「その経験を思い出す」シーンが一応存在しているという事実のみを重視し(この時点である種の誤読だが)、トラウマの形成と発現(一度目の反復)はコレコノヨウニ立派に描かれており、以降のトラウマの反復回帰は向こう側のファンタジー世界において主人公の想像力によって加工された上で展開され、その全体がフラッシュバック表現を代理しているのだ!ましてその加工(フロイトは夢の内容が現実の内容を加工した上でもっぱら視覚的に表れる点に注目した)が、炎に巻かれて死んだ母(炎に支配される)を炎を操る少女(炎を支配する)に変換する過程を伴っている以上、主人公を苦しめていた火のモチーフがネガティブなものからポジティブなものへと読み替えられ、イメージが動くことによってトラウマが変質し、主人公が癒されていく=母の死を幻想(ファンタスム)によって乗り越えたことが表現されているのだ!と見ることはまあ、いちおー可能だろう。
だが、これ以上いくら譲歩したところで、ここまでの検証からして、眞人のトラウマの内容が「最愛の母の死による衝撃と悲しみ」 「助けられなかったことの後悔」であるとは到底考えられない。
なぜなら、眞人は母を愛していなかったのだし、本気で助ける気もなかったからだ。
いまひとつ、最も重要なポイントが見逃されている。
ヒミの存在が母のトラウマに対する癒しの効果に対応している、という点はまあいい。しかしそれならば、トラウマの内容が「母の死の悲しみと助けられなかった後悔」であるならば、なぜあちら側のファンタジー世界において眞人がヒミをなんらかの窮地から救出する英雄的なドラマが展開されないのだろうか?
これではトラウマと癒し、外傷とその補償の内容がまるで対応していないではないか!
では、眞人はファンタジー世界においてヒミとともに実際にはなにをするか?
「ただ仲良くする」のだ。
つまり眞人のトラウマの内容とは、「母と仲良くできなかった、母の死を上手く悲しむことができなかった」ことなのだ。
フロイトは夢の効果を「視覚的な願望充足」に見た。抑圧された欲望が夢の中ではもっぱら視覚的な形をとって成就されるというのだ。眞人が冒険するファンタジーワールドもまさにこうした夢の効果の形象化と捉えることができる。というより「視覚的な願望充足」はわれわれ観客が映画一般にに求める効果そのものなのだが。
とすれば、眞人は生前の母との間で満たされなかった欲望をヒミとの関係の中で叶えていることになり、それは例えば、母と息子というよりむしろ(年齢の近い)対等な人間同士として仲良くしたい、友好的であたたかな関係を築きたい、導かれつつともに“冒険”をしたい、という願望であることが見て取れる。
逆に言えば、実際の母との関係はそのようなものではなかったわけだ。それは例えば、対等な人間同士としての交情が行われない、冷たく、非友好的な、ともに歩むことなど想像もできない、なにかとても非人間的なものであったのだろう。少なくとも眞人にはそう感じられていた。
なぜか?
おそらく、父と母は折り合いが悪かったのだろう。政略結婚としての割り切った関係だったのかもしれない。眞人はそうした父の姿勢に無意識のうちに追随してしまい(眞人の性格、正義感が強く一本気、それゆえ時に回りが見えなくなるちょっぴりの傲慢さは明らかに父親譲りだ)、母を愛することができなかった。いや、愛していた、愛そうとしていたのだがその愛を上手く表現することができなかったのだろう。そうこうするうち、母は亡くなってしまった。
あるいは、眞人が生まれた時には既に母は病に臥せっており単純に接触がなかった可能性もある。いずれにせよ、ここに発見されるものは母の愛の喪失ではなく、その不在=愛情飢餓、母性飢餓だ。
このように考えてみればすべての謎が解ける。本作において母の存在が奇妙にも無視され、その顔が隠蔽されるのは、そもそも眞人にとって母が不在の対象として経験されていたからなのだ。
母と息子の間には愛情や憎しみはおろか、それらを可能にするいかなる「関係」も存在しなかった。最初から存在しないものは失いようがない。だが、ただひとつだけ失われるものがある。それは、対等な人間同士としての関係を取り結ぶための機会そのものだ。
母が生きてさえいれば、いつかどこかの時点で二人の間に「関係」が発生し、それが愛や憎しみへと発展する可能性は大いにあっただろう。だが、母の死によりそのチャンスは永久に失われてしまった。このようないかんともしがたい種類の後悔はトラウマの形成に繋がりやすい。

つまりこういうことだ。
「炎に包まれる母を助けようとしたのに/やむにやまれぬ事情があり/ぎりぎりで助けられなかった」という図式は成立しないが(映像を見る限り、「やむにやまれぬ事情」は発生せず、そもそも救出劇は「ぎりぎり」の段階に至る手前であっさりと断念されている)、「自分にとってわからない存在である母をこれから長い時間をかけて理解し、愛そうとしていたのに/やむにやまれぬ事情があり(父の抑圧&母の病弱)/生きているうちになんらかの関係を取り結び、愛することができなかった」という図式は見事に成立するのだ。
だからこそ、ヒミは母としての母性を感じさせるキャラクターとしてではなく、むしろ反対に、中性的・無性別的、あるいは少年的な容貌を備えた眞人の年齢にほど近いキャラクターてして、「対等な関係を取り結び、ともに人生を歩んでいくことが可能な人物」として登場してくる。
わからない。知らない。だから愛することができない。知りたい。もっと母を理解したい。手を繋いで一緒に人生を歩みたい。英雄的な冒険を手引きしてもらいたい。
永久に叶う機会を失った少年の欲望。
「わからない母と仲良くなり、関係を持つ」
「ともに人生を歩む」
まさにこれこそが眞人の抑圧された真実の欲望であり、トラウマなのだ。
Q.E.D

結論が出ました。
『君生き』において問題とされているのは、母の愛情の喪失ではなく、母(母性原理)のそもそもの不在。
眞人のトラウマの内容は「愛する母の死→母を助けられなかった·····」ではなく、「母を愛することができなかった→母の死にショックを受けることができなかった·····」である。
まだまだ書かなきゃいけないことがいっぱいある(母の不在というテーマを明らかにするため、夏子は過剰なまでの母性とエロスを発散する大人の女性として描かれ、実母において隠蔽されていた母性原理を代替している。母の死によって父が“結果的に”獲得したもののまるで仕組まれたかのような豪華さ、など)のだが、ここらでいったん終わりにしようと思います。
ありがとうございました🐻

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