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おにぎりプロジェクト第18弾:「青島酒造・喜久酔」(静岡・藤枝)編

友人二人も握りに来たいといってくれたこともあったのと、2ヶ月の乳幼児も連れて行くということになったので、いつもよりも奮発してアルファードをレンタルする。表参道のアップルストア前で誰よりも笑顔な二人、それがバリスタの井崎英典とバーテンダーの後閑信吾である。コロナは色々な人たちとのご縁を大切に結び直してくれた、そんなことを再認識してくれる美しい朝の始まりだった。丁寧に結び続けることの大切さを、常に教えてくれるのはこのおにぎりプロジェクトだろう。シェフの成澤さんと始めたこの何気ないプロジェクトも、今朝の二人のようにどんどん仲間が増えて本当に大きなファミリーとなった。今日で18回目、実に一年半続けているボランティアプロジェクトだ。

このプロジェクトが始まってから、すぐに成澤さん経由で静岡からオリーブオイルが送られてきた。クレアファームの西村やす子さんからだった。「静岡のオリーブ農園を作ってその中にレストランのような料理ができるスペースをプロデュースするのを手伝っていて、完全に僕はボランティアなんですけど。好き勝手にやらせてもらっています。」いつものように謙遜しながら話していた成澤さんのことを覚えている。届いたオリーブオイルは、早速我が家のオイルコレクションに並ぶことに、イタリア人の友人からもらったオリーブオイルたちとともに丁寧に使わせて頂いたことを覚えている。あの時に話していたレストラン・キッチンスペースが完成するという、その名も”ENGAWA”だ。「藤枝には素晴らしい酒蔵があって、あの枡田さんが尊敬されている酒蔵さんなんです。」と成澤さんが続く。枡田さんとは満寿泉のボスであり、おにぎりプロジェクトスタートの地として手を差し伸べてくださった人だ。そんな枡田さんの手引きもあり、青島酒造での開催が実現することになった。

今回は異例づくしだった。なにせ蔵と連絡が取れないのである、青島酒造の杜氏を担う青島孝さんとはLINEなどでのメッセンジャーは使っていない。クレアファームの西村さんが僕らのやりとりを伝達するような形でフィジカルに蔵を往復してくれてやり取りをした。青島さんの経歴は異端だ。大学時代にバックパッカーとしてイギリスを皮切りに世界を回る。その中で感じた世界の格差社会から富の再分配というグローバルな課題へと繋がっていく。大学を卒業して向かった先はニューヨークだった。ウォーストリートで証券金融の世界へと進む。投資顧問会社で文字通り不眠不休で働き続けた時、数千億の単位のお金を動かしながら金融経済の先端に関わりながらも心は荒んでいったという、そしてついに体調を壊して一週間休むことになった。「ユダヤ人が考えたグローバルなシステム、それが金融の世界なんですけどね。僕のスイッチヒッターで来たスタッフで、一週間全く問題なく動いた。その時に僕の存在とはなんだったのだろうと思ったのです。」その想いは家業である日本酒作りへと繋がっていく。当時の青島酒造は下請け業がメインだった、先代だった父はこの代で蔵を畳むことを決心していた。ウォール街から舞い戻ったのが青島さんだった。「父は快く受け入れてくれなくてね、ニューヨークで失敗して戻ってきたと思ったんでしょうね。そんなに酒作りは簡単なものじゃない。」そう、笑いながら話す、青島さん。選んでのは当時の親方の部屋に住み込み、寝食をともにした、その生活を6年。ニューヨークの金融の世界から戻った30代の青年の想いは本物だった。

「数千億の中で1億とかの誤差とかって別にどうでもいいでしょう?それが今や数百円の金具をどっちにしようか、悩んでいるんだからね。」オリーブ農園を越えた先に見える太陽が、優しく青島さんの顔を浮かび上がらせる。同じくニューヨークで一線でバーテンダーとして働いていた後閑信吾が、「それからニューヨークに戻ったりはしないんですか?」と続く。気づくと僕らはENGAWAのウッドチェアで長いこと話し込んでいた。「こういう小さい地元を支え続けるのもいいでしょう。」そう青島さんは優しく笑った。暗くなってきた夜の空をバックに最後に彼はこう言った。

"THAT'S MY LIFE"

今回のおにぎりは、その彼の一言が未だに耳のずっと奥でリフレインし続けている。

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