春ねむり「春火燎原」によせて

春ねむりの作品は、相変わらず日記であり詩集でもあって、聞き始めるまでには気重さを漂わせ、聞き始めるとコンプレックスやルサンチマンが刺激され、ある種の気恥ずかしさをも漂わせてくる。
しかし、真っ当なコンセプトアルバムとして作り上げられているこの作品は、再生を始めてしまえば最後まで耳を傾けざるを得なくさせられてしまう力も帯びている。

それは小劇場で展開される朗読劇のような、この20年の(主に日本の)音楽的文脈に則った音楽劇のような、小道具も何もない舞台でスポットライトを浴びる春ねむりが見えてくるような、映像的な作品としての力だ。
言葉の後ろには舞台装置としての音像がアジテートするかのように配置され、悲しみが故の歓び、歓びが故の怒り、怒りが故の祈りが続けて演じられる。

しかし、ここまではこれまでの春ねむりの作品にもあった、春ねむりが評価され続けてきた部分とも言えるだろう。

この作品が、これまでと決定的に違う点は、「いきる」と題された楽曲が、意図的に最後に配置されている点にある。

特定の個人ではなく、抽象化された人々へ向けられた「生きていく」ということ。
これは、人に内面を語ることを自分に許し、あえて演じることで過去の自分を表出することを自分に許し、怒りを力に変えていく様を見せることを自分に許してきた春ねむりが、今回はじめて許した、作品上で意味をもたせた意図的な(自分自身にとってのある種の)欺瞞だ。

しかし、それこそが救いでもあることを知覚してしまったら、そこから目を背けることが出来ないのもまた春ねむりなのだろう。

生きることは素晴らしい。
呪いではなく、祈りの言葉として。


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