3.11の記憶

3.11 今年で10年を迎える。ネットでは、3.11に寄せる思い、被災者の方の思い、黙祷、寄付など様々な言葉が集まっていた。

3.11といえば思い出すことがある。これから書くことは私が3.11に体験し、その日が来るたびに思い出す「怒り」の話であり、大前提として、
私なんかよりももっともっともっともっと大変な思いをされた方がたくさんいらっしゃって、その方からすれば本当に小さな話であるのも間違いない。
これだけ大変だったということを競いたいのではない。フリーとして仕事をして3本の指に入るくらい、怒り軽蔑し、恐怖を感じた話でもあるし、忘れっぽい私が、残念ながらいつまでたっても忘れられないのでここに書いて置こうと思う。


取材の日

2011年3.11 私は珍しく新潟へ取材のカメラマンとして向かっていた。
珍しいというのは、本当で普段あまり雑誌の取材などはやらないのだが、
ネットを通じてその何年か前に一度仕事をした編集者の方から連絡があり、
どうしても3.11に新潟で取材をするカメラマンがおらず、お久しぶりなのですがご連絡しました、とのことだった。

私はこうして昔の縁でご連絡していただいた方とはなるべくお仕事したいと思っており、取材内容が東北で部活に励んでいる高校生の取材だったこともあり、スポーツも絡んでいるのであれば、自分で良ければ、と成立した話だった。

しかし、その編集者さんと出会った仕事は覚えているも、当のご本人の詳細までは思い出せず、当日を迎えることとなった。

当日、東京駅に朝早く待ち合わせ。

合流は問題なく済み、顔と話し方でなんとなく記憶の片隅にほりおこされるものがあった。久々に声をかけていただいたこと感謝し、新幹線へ乗り込む。この時、編集者(今では名前も忘れてしまったので編集者でHさんにしとこう)、私(カメラ)、ライター(男性、年上、Rさん)の3名。
Hはパーパーの星野ディスコ的な物腰の柔らかさでこういう人がいると現場は殺伐としないで済むんだよなあと安心し、Rはいかにもライター男性という感じで頼れる大人感がでていた。そこからぐぐっと年齢差があってカメラマンの私というフォーメーションだった。

ちなみにこの星野ディスコにこてんぱんにやられるという話なのですがちょっと前置きを。

新潟での取材は、1泊2日で3~4校ほど周り取材をするようなものだったと思う。順調に新潟に着き、移動。
校長先生に会い、早速体育館へ移動。バスケット部の男の子だったため、練習風景をいくつか撮影し、その後校長室にて学校についての話を聞いているときだった。

初めて大地震に出会う

校長室にある歴代のその学校の制服を着た4.5体のトルソーが揺れ始めた。

「地震ですかね?」

まだ声に余裕があったと思ったら、見たこともない幅でさらにトルソーが揺れ、ガラス張りの校長室がきしむ音がし、校舎全体が大きく揺れ始めた。

「ちょっとやばいですね、外出ましょう」

まもなくして生徒や教師も活動を一旦停止して廊下に集まってきた。
揺れは収まったものの、体がまだ揺れている感覚があり、若干酔い始める。

「いやあ、大きいですね、ちょっとテレビみましょう」

さすが校長室、テレビあるんだな、と思ったことは今でも覚えている。


テレビの中

つけたNHKでは津波が町を飲み込む映像がつぎつぎと流れていた。
正確には報道というものがまだ出来ておらずひたすらに津波の映像を流すしかほかなかったという感じだった。

「いや、これ結構大きいですね」
「この後の撮影どうしましょうかね」

津波の映像をみながらも自分の周りだけは別世界と感じるほど、
そこにいた全員がこの地震の爪痕を想像出来ないでいた。
私も同じくで
新潟の高校の校長室でなんでこんな感じになっているのかイレギュラーにも程がありすぎて、とにかく取材続行なのか、このあと帰るのか、
どうなるんだろうなあ、と黙ってテレビをみながらぼんやりしていた。

結局取材続行は不可能と判断し、夕方あたりに学校を出た。

「じゃあ、今日は帰りますか?ってか帰れるんですかね?」
編集のHが言う。
「調べたんですが、新幹線だめみたいで、泊まりになると思いますよ」
「じゃあ、急いで新潟駅もどって宿とりましょうか」
「泊まりになるんですね。これは結構大変ですねえ」

まだまだ実感として「大変さ」を感じることの出来ない状態だった。
3人で新潟駅に戻り、駅のインフォメーションで宿を聞いたところ、シングル3部屋は無事に確保出来たとのことでホテルに移動した。
にわかにホテル争奪戦は始まっていた模様で、私達の2組後は「もうどこも満室です」と言われていたのでタイミングは良かったようだ。
結果、レトロ極まりない駅前のビジネスホテルに荷物を押し込んだがそれでも十分だった。


その夜


「ひとまず、荷物置いたら飯食いがてら相談しませんか」
気づけばもう夜に近づいていた。多分、まだ私達は「どこかで」は
遠い場所で起こった大きな地震、くらいにしか思ってなかったんだろう、近所の居酒屋で地震のテレビを見ながら自己紹介やこれまでのこと、明日からどうするかなんてことを酒を飲みつつ話していた。

おそらく一晩寝れば。
東京に帰れる。

そろそろお開きとなったのが11時頃だったと思う。
急な泊まりになったので近くのコンビニに行き、水や化粧水などを買ったが、この時本当に買うべきものは充電器だった。
そもそも日帰りの予定で充電器も持ってなかったのだが、今ほど携帯を使いこなして対策を練る時代でもなかったので充電器を買う発想にいたらなかったのだ。その上、充電器は売り切れていたので買いようもないといえばなかった。

ホテルについてしばらくテレビを見てシャワーを浴び、携帯から家族に連絡した。

「実は今新潟にいますが私は大丈夫です」
「え?そうなん?大丈夫?」
心配した母や兄とそんな会話をメールでした。

ビジネスホテルは怖いのでいつもビールを多めに飲んで酔っ払った状態で強引に眠りに入るのだが、その日はなかなか寝付けなかった。

その時

グラグラグラ

深夜3時位だったと思う。昼間に感じた大きな地震の揺れを再び感じた。
土地勘もない新潟のホテルで大きく揺れる。
信頼できる人はおらず、今日始めて会ったライターさんと数年ぶりにあった編集者さんしかいない。
テレビをつけると新潟でも震度4とか5とかのマークがついていた。

しばらく布団に入っていたが揺れはふたたび発生。三度目の大きな揺れでホテルの浴衣を捨て洋服に着替え荷物をまとめて階段で一階まで降りた。
ロビーは最低でもフロントの人がいるかも知れない。
一人で部屋にいるよりはましかもしれない。
そうしてたどり着いたロビーには、テレビを囲むように7~8人同じような人がいて、その中に編集者とライターがいた。

「なんか怖いんでもう支度しちゃいました」
「そうですねえ、ゆれてますよね」

(集まってんならメールくらいしてもいいのに・・・)
なんて違和感もあったが、それどころでもなかった。
おそらく実感としてこれは大変な地震なんだと思ったのはこのくらいの時だったと思う。

「明日帰れますかね」
「新幹線結構きついみたいですよ」
「最悪飛行機でも帰れますかね」

HとRはそんな会話をしていた。もちろん取材名目で来ている身なので連泊は難しいだろうし私だって早く東京に帰りたい。揺れも収まったのでまたちょっと一眠りして明日朝8時に集合して作戦練りましょうか、となり解散することになった。
取材用のカメラを積みに積んだキャリケースが重たい。また4階まで戻る。


地震の翌日 本当の地獄はここから


8時、ライターさんの部屋に集合しNHKを見る。
地震、そして津波になぎ倒された東北の痛ましい映像が続く。

「今日も変わんないですね、多分」
「僕、とりあえず部屋とったんで昼までここにいます。もしかしたら連泊するかもです」
ライターは言った。
「みなさんも一緒にここにいてもいいし、おまかせします。」

動くべきか動かざるべきか、わからないなりに私達は駅にいくと告げた。


ここからHと一緒に行動することになった。

はずだった。



駅に向かい新幹線の様子をみるも電光掲示板にはいつ復旧するかわからない運転見合わせの文字が延々と続く。それでも人は駅員に問い合わせる。
自分だけは違う情報を得れるのではないかと。
もちろん、見合わせは見合わせなので、見合わせだ。
ついでにHと顔を見合わせる。

「僕・・・まじで帰りたいんですよ、飛行機でも行けるかもしれないんでちょっと調べます」

新幹線でもダメなものが飛行機は動くのだろうか?と思いつつ、
「あ、はい」
と返事をする。

Hはもともと星野ディスコ的だと言ったがよく言えば「物腰がやわらかい」悪く言えば「ちょっとなよっとした感じ」がある人だった。長所は短所にひっくり返る。このころからHはやたら「帰りたい」を連発するようになっていた。
もちろんみんな帰りたいに決まってる。だけど、彼一人だけが特別で、彼だけが帰らなければいけないかのように「帰りたい」「帰らなきゃいけない」と言い続けていた。ただなんかなよっとしてるせいもあって、ちょっと我儘言う女の子みたいな感じだなあ、大人なのになあ、くらいに思っていた。

正直、仕事でHの仕切りでここまで来たのだし、私は大荷物だし、
仕事も仕切り直してまたやるかもしれないし、ここに残ると決めたライターは置いといたとしても
「東京から連れてきたカメラマンと二人で一緒にどうやって帰るか」と考えるもんだと思っていた。

「タクシーで○○駅まで行って、そこから飛行機で・・・」
「タクシーで最悪東京まで??」

ひとしきり携帯を見ながらぶつくさ言っていたHだったがしばらくして私にこういった。

「宮木さん、飛行機で帰れる線をさぐりたいんで、
ここで解散で。」





は?

は?

解散?

飛行機で帰れるなら私も帰りたいし、っていうか、お前の仕事で集まってんだろ、なのに解散てどういうこと?これから一人?Rのところに戻っても部屋で二人きりもきまずいし、え?っていうか解散?

「え?解散ですか?各々でってことですか?」
「はい。そうしましょう。じゃあ、ぼく空港行くの探してみるんで」

あっという間に星野ディスコ、もといHは私の前から消え去った。
なよっとどころか、わがままどころか、この状況下での一大放棄宣言だった。

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