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水没の街で、薔薇の花言葉を知る

疲れた、の次に出てくる言葉が「死にたい」と思うほど、退屈でつまらない日々を過ごしていた。

胸に一輪の紅い薔薇を飾り、私は電車に揺られていた。

今日はヴェネツィアで言うところのボッコロの日、男性が愛する女性に一輪の薔薇を送るのが慣わしの日なのだとか。それにかこつけた企業が、美辞麗句を謳ったチラシと共に差し出してきた。

色褪せた日々に突如、差し込まれた紅は鮮血のように鮮やかだった。「認可が下りない」「保留」などと言った分からず屋の上司の言葉が、薔薇の芳醇な香りで上書きされていく。私に染み付いた薬品の匂いさえ、搔き消してくれるようだった。

私は心赴くままに研究がしたかった。自ら携わり作り上げたモノを、適正なカタチで世に送り出したかった。日々、都内をぐるぐると無限に回り続ける緑色の電車のように、変わらない風景を見続けたいワケじゃない。

電車が停車し、雑多に人が入れ替わる。ぼぅっと人の流れを見つめていると、私が立つ場所とは反対側のドアの仕切り前に詰襟の男の子が立った。彼の胸ポケットは、私とおんなじ紅色の薔薇が飾られていた。

顔を上げると、彼も気づいたのか見合わせるカタチとなった。彼がほんのりと笑った。ドアがプシューと音を立てて閉まった後も、しばし見つめ合っていた。

次の日から彼は同じ時間、同じ場所、私の前に乗車してきた。

彼と言葉を交わしたことはない。
彼は一駅分だけ乗車し、降りていった。
彼と私を唯一繋げるのは、あの日の紅い薔薇で作られた二枚の栞だけ。

職場の薬品を拝借して私が作った。彼が文庫本を持っていたので、言葉なく差し出したらあの日の笑顔と共に受け取ってくれた。紅い薔薇の栞は今日も彼の手の中にある文庫本の中に在った。

両開きドア分の距離を保ちながら、いつものように一駅分の非日常を過ごす。
ふと目を合わせるだけで会話しているみたいだった。
彼が手をあげ、降りる。私はそれに小さく手を振り、応える。

それだけで、私は幸せだった。


季節がうつろう頃、彼はおんなじ制服を着た彼女と共に乗車してきた。私とは正反対の、快活な笑顔を浮かべる女の子だった。連れ立つ彼もまた、同じ笑顔を浮かべていた。

彼女に続いて、喪服を着た大人達が次々に中ほどへと乗車した。それでも彼女は気丈に笑っていた。きっと今、彼女が浮かべる笑顔が、彼は好きだったに違いない。彼は、彼女が持つ黒い額縁の中に行儀よく収まっていた。

彼の詰襟には三学年を示す学年章がついていた。その割に制服が綺麗すぎた。
日に焼けていない透き通るほどの白い肌も、読み込まれてクタクタになっていた文庫本の理由も、この時になってようやく理解した。

彼の遺影に差し込まれた紅い薔薇の栞。鞄の中に入っていた私の分の栞を、彼女から見えないように手の中に握り、指先でなぞる。

一駅分の非日常は日常へと戻り、唐突に終わりを告げた。

ドアが開き、遺影を持つ彼女を先頭に、ゾロゾロと大人達が降りていく。彼女のしゃんと伸びた背中を見送ると、プシューとお馴染みの音をたててドアが閉まる。

ガラスの向こう側に在る彼女の背に、瞳から頬に向けて一筋の涙が溢れたおちた女の顔が重なった。

どうか生きて──紅い薔薇の栞に触れる度に、彼の最期の想いが聞こえる。

... anothr side story

転職活動一発目の面接で心が折れた精神惰弱なわたくしに、こころばかりのサポートいただけると大変嬉しいです。