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狩と権力

今回の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、曾我事件、富士の巻狩がテーマでした。

日本において、狩と権力とは深い関係があります。狩られる動物たちは、その土地の神霊であり、その動物たちを捕獲するという行為は、その土地の支配を意味しています。そして、臣下を引き連れて、山野の動物を捕獲する行為は、王者のパフォーマンスだったのです。
 
例えば、『古事記』に記される雄略天皇の狩猟記事には、狩猟をする天皇の前に土地の神々が登場して、服属を誓うという場面が出てきます。狩猟は支配の象徴であり、宗教的儀礼であり、つまり天皇の権力と強く結びついていたのです。
 
記録上最初に登場する天皇の狩猟記事は、『続日本紀』で、①神亀元年五月、②天平十二年十一月、③同十三年五月の、計三回にわたる聖武天皇の狩猟です。いずれも鹿狩りを主体としていました。
 
平安時代以降の狩猟は、鷹狩りが主体となっていきます。そのきっかけを作ったのは、桓武天皇。桓武天皇は鷹狩りをこよなく愛し、延暦2年(783)から延暦23年(804)までの間に、132回にのぼる遊猟を実施したと言われています。その背景には、平安遷都という大きな事業がありました。天皇は、新しい土地で王者としての姿を見せる必要に迫られていました。そこで選ばれたのが、臣下を引き連れて狩猟を行うというパフォーマンスだったのです。鷹狩りというパフォーマンスに事寄せて、各地の視察をし、自分の狩り姿を見せることによって、王者であることをアピールしていたのでしょう。
 
 以後も、平安時代は鷹狩りを中心に天皇の狩猟が行われます。
ここで有名な『百人一首』の藤原忠平の歌を、『拾遺集』の詞書とともに取り上げてみましょう。
    亭子院、大井河に御幸ありて、行幸もありぬべき所也と仰せ給ふ
    に、事の由奏せんと申して
  小倉山峰のもみぢ葉心あらばいま一たびの御幸待たなむ
               (『拾遺集』雑秋・一一二八・藤原忠平)
  (小倉山の峰の紅葉よ、もしおまえに心があるならば、次の醍醐天皇の
   行幸まで、散らずに待っていてほしい)
延長四年の宇多上皇の大井河遊覧、紅葉狩りの歌ですが、この前に一行は嵯峨野で狩猟を行っていました。詳しい考証は、谷知子「「野行幸」考―始原から『六百番歌合』まで」(『玉藻』42号 2007年3月)をお読みいただけますと幸いです。
 
上皇・天皇・摂関との和やかな関係を表すこの歌が、王権、君臣の絆を象徴する狩猟の後に詠まれたということは、この紅葉狩りが、ただの「友情」や「愛情」に基づくものでないことを物語っています。
 
醍醐天皇の後、天皇の狩猟は長いブランクの時期を迎えます。そのブランクの後、狩猟を復活したのは、白河天皇でした。しかし、『基成朝臣鷹狩記』は、「白河院の御位の時、承保三年十月二十四日、嵯峨野の行幸あり。其ついでに大井河の逍遥あり。その後は事絶えたり」と記します。
 
白河朝以後、時を隔てて、再び狩猟をこよなく愛した天皇が登場します。それが、後鳥羽天皇です。多くの人々を動員しては鷹狩を行い、また、絶えて久しかった鹿狩りも復活させました。大河ドラマが、後鳥羽院をどのようにどのように描くのか、今からとても楽しみです。
 
最後に、「野行幸」について少しだけ。村上天皇の時代に、天皇の狩猟を表す特殊な用語が生まれました。それが「野行幸」です。一種の符丁ですね。
「野行幸」は歌題としても用いられました。最初の例は、『永久百首』、その次に登場するのが、九条兼実の息子良経が主催した『六百番歌合』です。

天皇の鷹狩りは現在はほとんど行われず、宮内庁管轄の鴨場で行われる鴨猟が最もなじみある狩猟かもしれません。しかし、その鴨猟も、動物愛護の精神に則り、鴨を傷つけることなく捕獲する方法を用い、伝統芸能的な道を歩みつつあります。日本の狩猟が遊戯的な意味ではなく、王の祭祀・支配という性格を持つという特別な背景があるがために、逆に衰退していったとも言えるでしょう。



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