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木曾と申す武者、死に侍りにけりな

「木曾と申す武者、死に侍りにけりな」
 
これは、木曾義仲と同じ時代を生きた歌人西行(平清盛と同じ年、元北面の武士)が、義仲の戦死を聞いて書きつけた詞書です。突き放したようにも思えるし、あるいは万感をこめたような印象にも思えます
 
西行が詠んだ和歌は
「木曾人は海のいかりをしずめかねて死出の山にも入りにけるかな」(『聞書集』227)
西行が戦場での死を和歌に詠んだのは、この一首のみとのこと(西澤美仁『西行 魂の旅路』ビギナーズクラシックス 日本の古典・角川ソフィア文庫)。
「木曾人」は木曾義仲のことで、木曾の山ならぬ「死出の山」に入ってしまったとやや諧謔的にその死を詠んでいます。「山」は第2句の「海」と対をなしているのでしょう。この文脈を素直に読めば、「本来は海に碇をおろして停泊するはずだったのに、海の怒りを鎮めることができなくて、海ではなくて山に、しかも死出の山に入ってしまったんだなあ」という意味に理解できます。
 
問題は、「海のいかり」です。「碇」と「怒り」、「沈め」と「鎮め」の掛詞であることは、のこれまでの解釈のとおりです。「海の怒り」とは何を指すのでしょう。この「怒り」の解釈については、中西満義「西行『木曽人は』歌についての覚え書き」(『西行学』4号、2013年8月)に丁寧に整理されています。
 
西行は、「六道」「修羅」を「よしなしな争ふことをたてにしていかりをのみも結ぶ心は」(聞書集)と詠んでいて、争い(戦争)と怒りを結びつけているのことはたしか。また、久保田淳氏が指摘されているように、西行の『山家集』1163・1164番の崇徳院・西行の贈答歌に、「怒り」「碇」の掛詞の例があり、崇徳院の「怒り」と「碇」が掛けられ、崇徳院の怒りをおさめるという意味で詠まれています。
 
こうした西行の例からすると、「海戦に敗れた怒りを鎮めることができないまま」義仲は死んでしまったとする西澤美仁さんの解釈が自然なように思えます。和歌文学大系『山家集/聞書集/残集』(明治書院)も、「寿永二年閏十月の備中水島の海戦に敗れてから、死に至るまでの義仲の命運を寓するか」(西澤さん担当)も同趣旨の理解です。

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