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映画『シンプルな情熱』にみるセクシュアリティの本質。「性の神話」を打ち破り、フランスの男と女で評価が分かれた原作

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1992年のフランスで「シンプルな情熱」という私小説が生まれた。著者は当時52歳だったアニー・エルノー。彼女は、10歳余り年下の既婚者男性との1年にわたる性愛を小説にしたのだった。本書は出版されるや否や、国内でベストセラーになったが、文壇の男性たちからはその文体がシンプルすぎると厳しく批評された。一方、フランスの女性の書評家たちからは大きな支持を得たという。(※1)

1992年にフランスを騒がせたこの小説を、レバノン出身でフランス在住の女性、ダニエル・アービッド監督が同名で映画化し、絶賛された。この話題の映画がとうとう7月2日に日本で公開される。

小説の余計な装飾を省いた文体や、エピソードを一切盛り込まない主人公女性の内的独白が、映画的物語へと見事に昇華された本作。この物語の評価をめぐり、なぜ、フランス人の男女の間で評価が分かれたのかーー。セクシュアリティの視点で紐解いてみたい。

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©Julien Roche

■『シンプルな情熱』あらすじ

大学で文学を教える自立した大人の美しい女性、エレーヌ(レティシア・ドッシュ)は年下のロシア人男性アレクサンドル(セルゲイ・ポルーニン)と刹那的な情事を重ねていた。既婚者の彼にはこちらから電話をすることもできず、エレーヌはひたすら彼の連絡を待つだけの日々を送っていた。そして会えば、燃え尽きるような肉体関係を結ぶ。将来の約束もなければ、お互いの生活にも関与しない、情熱とセックスを共有するだけの関係だ。ある日、エレーヌが恐れていたことが起きる……。

■本作のタイトル、「Passion」という意味



「Passion simple」というタイトルだが、原作ではこの「パッション」が文脈により、「情熱」「恋」「恋心」「執着」などと訳されている。訳者の堀茂樹氏によると、もともとはラテン語で「苦しみ」「苦痛」「苦悩」を意味するという。また、passionの頭文字をPassionと大文字にすれば、キリストの「受難」を指す。

堀氏は、この語源から、このタイトルに使われた「パッション」は“受け身の状態で苦しみ”、そして、“外から自分に取り付いて自分を虜にする力だ”、と説明する。(小説の訳者あとがきより)

つまり、この映画は「シンプルな情熱」に取り憑かれた女性の物語であり、それ以上でも以下でもない。

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©Julien Roche

■愛と性的欲求と情熱は共存しない「セクシュアリティの本質」

外から取り憑き、自分を虜にする力――情熱。

性科学の分野でも、情熱について同じように主張する学者がいる。アメリカの性科学者、エミリー・ナゴスキ博士によると、情熱や性的欲求は、外部からの“刺激システム”で内側からわき上がる生理的欲求ではないそうだ。性的欲求は食欲や睡眠欲のような生存のための欲求と違い、必ず外にトリガーとなる何かがある。そして性欲も情熱も「新しいものに冒険し、曖昧さを解決したい」という“好奇心”により起こる、という。(※2)

面白いことに、「好奇心は“愛”とは共存しない」とナゴスキ博士や「Mating in Captivity」の著者である性科学者のエステル・ペレル博士も論じている。(※2)なぜなら、愛とは安定、安全と安心により感じられるものだから、安定した愛情関係にいるカップルは、お互いへの好奇心を失い、いつしか恋の情熱や性的欲求も消えていくからだ、と説明する。

アレクサンドルはロシアから赴任中の“異邦人”であり、将来の約束もしない曖昧な恋人だ。滅多に会えず、いつ連絡が来るかも分からない。この“欠乏感”と曖昧さがエレーヌの情熱と性的欲求をますます掻き立てていく……。

バタイユが「タブーがエロスの根源だ」と言ったが、知識人のエレーヌよりも俗っぽく、異なる言葉を話し、タトゥーに刻まれた肉体をもった、他の女のものであるアレクサンドルは、タブーそのものだったのではないだろうか。

手に入れるべきではない人、手に入らない人だからこそ、官能は深まり、情熱の中毒になってしまう。

この物語は、実に“セクシュアリティの本質”を突いている。

■「性の神話」から解放された女は殺される

セクシュアリティの本質を暴く物語なのに、原作小説は1992年にフランスの男性文化人たちから批判されてしまったーー。ここには社会が作ってきた「性の神話」に一因があると思う。

セックスは“男の性欲”であり、“男性の生理的なニーズ”であるから、男性が不貞を働くのも、男性がセックスだけの関係を求めるのも当たり前だと長い間、社会では捉えられてきた。

反対に、女性が男性を性的対象“だけ”にするのはタブーだった。女性は男性から求められる“客体”であり、男性を求める“主体”の女性は、“ふしだらな存在”だとされてきた。

だからこそ、映画の世界でも男性を性的に求める女性はファム・ファタールや魔性の女として描かれてきたのではないだろうか。そうして、性に主体的な女性は大抵、物語の終わりに殺されてしまうことが多かった。『危険な情事』のグレン・クローズ(1987)、『ベティ・ブルー 愛と激情の日々』(1986)のベアトリス・ダルなどがよい例だ。

現実の世界でも、いまだに自分の性的欲求を露わにしたり、不倫をしたりする女性は、同じことをする男性よりも世間に叩かれているような気がするが、筆者の気のせいだろうか?

■情熱や性的欲求に突き動かされる女性は“脅威”として映る

「シンプルな情熱」の主人公の女性(=著者のアニー・エルノー)は1990年代初頭のジェンダー規範から逸脱した女性ではないだろうか。将来の約束や愛される期待もせず、ただただ、男性をセックスと情熱だけの対象にする。アニー・エルノーは、当時の権威的な男性の目には“女らしくない、男のような女”として、“脅威”に映ったのかもしれない。

事実、アニー・エルノーはこう発言している。

「……私が唯一企てたこと、それは果てまで行くということでした。ただし、この『果て』というのは2人で暮らすということではありません。つまり、他に目的なんかない、恋のための恋だったんです。そんな恋をすると苦しみます。でも幸せにもなります。これはむしろ男性によく見られる形の情熱です」(※1)

言い換えると、女性は常に永遠の愛や結婚を期待している、というジェンダーステレオタイプがあったのだ。

■愛と情熱とセックスのすべてを手に入れる方法



愛と情熱と性的欲求が共存しないと読んで失望した人もいるかもしれないが、好奇心の火を絶やさずにいれば、安定した愛のなかで情熱とセックスをキープできると性科学者たちは言う。

エステル・ペレル博士は、長期的なリレーションシップにいるカップルはあえてお互いから距離を置き、ミステリアスな存在で居続けることを提案する。

正反対の方法として、ジョン・ゴットマン博士は、カップルはより親密な友情を築き、セックスを生活の優先事項にすることが、情熱と性的欲求を持ち続ける秘訣だと唱えている(※2)。

どちらにせよ、努力なしでは愛と情熱とセックスのすべてを、持続的に手に入れることはできないのだ。

話は逸れたが、『シンプルな情熱』の小説も映画も人間のセクシュアリティの本質に迫った素晴らしい作品だ。何の打算も損得もなく、道徳観や社会規範から解放されて恋の情熱に溺れることは、とてつもない贅沢なのかもしれない。アレクサンドルを演じたセルゲイ・ポルーニンの瞳、声、鍛え上げられた肉体が、そんなシンプルな情熱に説得力を与える。ぜひ、映画館で贅沢なひとときに浸ってほしい。

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■公開情報






7月2日(金)Bunkamuraル・シネマほか全国ロードショー
©2019L.FP.LesFilmsPelléas–Auvergne-Rhône-AlpesCinéma-Versusproduction

【参考】

※1…早川書房 アニー・エルノー著 堀 茂樹訳 「シンプルな情熱」
※2…「Come as you are : The surprising new science that will transform your sex life」by Emily Nagoski
※3…三省堂 ハンナ・マッケンほか著 最所 篤子・福井 久美子訳「フェミニズム大図鑑」


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