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死を意識するお年頃

【注意:幼児期の親からの暴力の話が主です。】

死ぬってことがまだわからなくて、ここからいなくなりたい、遠くに、どこかに行きたい、そう思ったのは幼稚園のあたりだった
もう少し成長して、自分で死を選ぶこともできるって理解してから、死は常にわたしの頭に居座ることになった

幼稚園に入る前くらいの頃から、母親が異様なまでに教育熱心だった
わたしは覚えがわるいので、いつも執拗に怒られていた
公◯式をやらされていた、進めないと殴られるので後に小学生を卒業するころには高校の数学、国語をやっていた

幼稚園に入った頃は掛け算がいつまでも覚えられなかった
玄関に座らされて掛け算をはじめから言わされる、いつも途中でつまずく
覚えが悪いのもあって語呂で覚えさせられていた、玄関に座ったわたしに母親は、「シワ(4×8)は??シワは?!何本??何本?!」とか怒鳴り続けている、ハタから見たらかなりシュールな光景だ(シワは32本!!笑)
なんで玄関に座らされているかって?ひとつでも言えないと、外に放り出されるからです
暗くなった家の外、庭にじっと座ってみたり、ふらふら森に近寄ってみたりしながら、漠然と思った、“ここじゃないどこかに逃げられないのか?できない、いまのわたしには何もできないそんな力がない、どこにも行けない”、なにも考えないことにした

結構キツかったのは、幼稚園の連絡帳だ、週1くらいで先生がご丁寧に書いてくれるやつ
「靴の右と左を間違えます」「弁当を食べるのが遅いです」「協調性がないです」わざわざ教えてくれる、わざわざわたしのために
連絡帳を持って帰ってきた日は椅子に座らされる、たぶん2時間くらいは罵倒されていたと思う

ちなみに、浴槽で掛け算を言わされるパターンもありまして、今度は全部言い終えるまで出られない仕組みです
妹は公園の砂場で、浴槽DE掛け算Var.のわたしの真似をするようになって、すぐに掛け算を覚えました、なんだそれ

ちょっとした救いは国語だった、おそらく死をちゃんと理解したのも国語の教材のおかげだ
こうもなってなければ、クソガキが「城の崎にて」を買ってもらって何度も読まなかったと思う
本を読むことは本当に好きだった、小さな逃げ道、逃避

母親は突然あきたのかあきらめたのか、なにか悪いものに取り憑かれでもしていたのか、中学生頃には気づいたらのごく普通のやさしいババアになっていた


ここまで書いておいてアレですが不思議と母親のことは恨んでいない、0と言ったら嘘になるけど、100あったら5くらいしか恨んでいない
上の仕打ちを受けていた頃、後から聞いた話だけど父親がいつも以上にだいぶおかしかったらしい
父親は会社をしばらく無断欠勤していたようで(ワレ無断欠勤する遺伝子ちゃんと受け継いでてワロタ)、母親に知られないように家の電話線を抜いていたり、そんな感じの奇行を繰り返していた
母親も、お見合いで結婚しただけのイカれ男(もちろん子育てには一切関与しない)と、常にぼーっとして右も左もいつまでもわからない鼻くそばっかりほじっているような第一子、そんなの教育ヒステリー女に変身しても仕方がなかったと思う
わたしが母なら、どちらかを殺していただろう

ただひとつ、気になることがある

異様な形で勉強させられてきたため、自発的に勉強をしたことがほぼない
高校はそんな母親のおかげで母親が選んだ推薦で行ける1番いい学校にいったものの、公◯式の高校レベルの数学、国語以外何もできないし、やろうとも思わないので毎年留年の危機に瀕していた
中学も高校も行きたくなかった、大学はもっと行きたくなかった、集団生活は大嫌いというかできないし、勉強する気も微塵もないので、本当に行きたくなかった
もうただのやさしいババアになっていた母親に泣きながら訴えた、「本当に大学に行きたくない。やりたいことも何もない。気力もない。」、どう思ったんだろう
気づいたら、すべての大学の申し込みが終わっていた

数年後、わたしは母親にまた泣きながら訴えた、「仕事をしたくない。働くくらいなら死にたい。本当に何もしたくない。」、どう思ったんだろう、かわいそうな母親
それから、しばらくニートをしていた

もしあのとき暴力で強制的に勉強をさせられていなかったら?なにか違った?ぜんぜん違った?
無気力じゃなかった?努力をしようと思えた?頭が死でいっぱいにならなかった?
それともやっぱり、いまだにぼーっとして右も左もわからないまま鼻をほじってた?

それだけがずっと引っかかっている

それだけ

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