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インスタントな言語化をやめてみたら、人と比較することが減った

随分久しぶりのnoteになる。最後に更新したのが5月の頭なので、3ヶ月も前の話です。仕事での執筆を除くと、自分の考えをまとめて言語化するのが本当に久しぶりな感覚。

先日ある気づきがあり、こんなツイートをしました。


矛盾するようですが、6月の下旬から意図的に自分の考えを言語化しないようにしてきました。上記のようなツイートも多少していたものの、自分の中で確信的になったこととか、単なる疑問を書いただけだったと思います。

少なくとも自分の中では、今までよりは言語化の量は減らせたと思っています。

言語化をさけた当初の理由は、物事を浅いところで理解したくなかったからです。何でも「わかったつもり」になりたくなかった。


インスタントな言語化が無思考な自分を育てていた

インターネットの世界に入り、ソーシャルメディアに関わるようになってから、「自分の考えの言語化」の大切さを色々なところで見聞きしてきました。自分の考えは積極的にまとめた方がいい、どんどん発信した方がいい、未熟でもいいから伝えたほうがいい。

間違いないと思います。ただ、思考の過程あっての言語化が大切なのであって、反射的な言語化はそうだとは言い難い。


僕がよく触れるのはソーシャルメディア。言語化の先はTwitterかnote、YouTubeであることが多いです。特にTwitterはインスタントにそれができるからか、他者が言語化した情報が大量に流れてきます。

目立つのは言語化された外面=思考と行動の結果であることがほとんどで、その過程はなかなか目につきません。成功した人がノウハウを披露すれど、過程にある猛烈な試行錯誤はなかなか伝わってこない。

というかどんなに聞いたところで、自分が体験しないことには伝わりません。

「風性常住」という禅の考えがあります。風(悟り)はそこにあれど、扇を動かさないと風は起きません。つまり、理論ばかり知っていても行動しないことには何も起きないということです。

「自分も言語化しなければならない」と思い込み、結果として試行錯誤の過程をすっとばした浅い言語化ばかりをツイートしている自分は、他人が作った扇風機の風を浴びてるだけです。

要点まとめ人間で実践もしない自分、何事もわかったつもりになっていく自分、ゾッとします。


他者の言語化を見続けていると、無意識に他者と比較する自分がいた

それと同時にソーシャルメディアで「他者の言語化」に触れ続けていることで、常に他人と比較し続けている自分がいることにも気がつきました。

あれだけ比較しないで自分のやるべきことをやる、と考えていたくせに、無意識に比較しちゃっていたんですよね。

上述しましたが、他者の言語化は、その人の試行錯誤の結果であって必ずしも正解ではありません。どんな成功した人、どんな偉大な人の意見であっても同様です。

他者の言語化から学びこそあれど正解ではなく、人生の正解は自分でつくっていくほかありません。

わかっているようで、腹落ちするまで随分と時間がかかりました。20代すべてを使ったと思う、とても時間がかかった。

浅い言語化を避けるためにソーシャルメディアを見る時間を減らしたことでたまたま気がつけた副産物ですが、とても良い気づきになりました。


さいごに

文中でも触れましたが、言語化を避けている期間中に、少しだけ禅について学びはじめました。

人が持つ悩みの大きな原因は物事への「執着」で、執着は心が「反応」することがトリガーになるんだそうです。

反応することで執着がはじまるし、執着しているからこそ反応する。両面ありますが、反応しないことで執着から離れていけるものだと理解しています。

「人と比較しない!」とわかっているもののつい比較してしまう自分。ソーシャルメディアが持つ「刺激」の強さは、心の「反応」を引き起こしてしまうものなんだろうなぁ。

今のキーワードは、「試行錯誤」「刺激と反応」、そして「反復」です。


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