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蟲医はなんの影響でできたか

蟲医、蟲医プロジェクト、蟲医シリーズについて、なんの影響によって生み出されたか、ということを考えるのは、あまり簡単なことではないと思う。
蟲医には、SFプロトタイピングの影響が大なり小なりある。というか、私は蟲医がSFプロトタイピングだと思っている。読者の皆さんにそういう認識があるかはさておいて、私自身としてはそういうものとして構想していた。結果的に出来上がったものは、SFプロトタイピングというには少し外れたものだったのだが、私は明確に意識していたと書いておくことは、特に蟲医の価値を毀損しないだろう、少なくとも今のところは。
SFプロトタイピング事業は、本当のSF的な未来への想像から、培養肉などのベンチャーなどを生み出しているが、私自身としては蟲医がいずれは事業化すること、これをまさに期待している。昆虫食のための昆虫養殖や、養蚕業が、より衛生的でクリーンなものというイメージになるためのハードルは高く、そこに蟲医または虫医という職業が介在する余地はあると思っている。例えば病気になってしまう虫たちに対して、それなりの対価をもらった上でなんらかの処置をすることで体調を改善したり悪状況を軽減したりすることは、恐らく可能だと思う。ただ、今は出来はじめたばかりの市場なので、蟲医は名乗ったもの勝ちなところがあり、そうすると蟲医という職業に対する信頼がそもそもないところからのスタートになる。蟲医の現場は、専門家の知見によって治療するというよりは、病気の防除のコツを教えるとか、そういう話になると思う。そして私は、蟲医の現場にいる人というより、蟲医を広く知らしめるという立場に近いと思う。
それはさておき、蟲医は現実にいるのか、という話だが、一応家畜である蜂に対して使用する薬の存在は条件付きではあるが許可されているので、蟲医のような存在もある程度はいることになる。この話は獣医学部の学生さんから聞いた。研究者レベルでは薬品などにより蟲医のような技術を実践している人たちもいる。
しかしながら現実問題として、蟲医が必要な現場が仮にあったとしても、そこに蟲医が出向く必要がある、『冬虫夏草』のような事例は極めて限定的であろう。あの話はファンタジーとして考えるべきで、個人飼育者に対して蟲医ができることは、なんらかのアドバイスをすることぐらいしかない。薬品の購入は許可が必要なものもあるし。蟲医がいるべきは、むしろ昆虫の大量生産者・供給者に対しての飼育アドバイスなどをする立場であろう。


影響の話をなかなか始めないのは、どんな影響かを形容することが、誠に難しいからである。
蟲医を書き始めてからは、ラオス文学やミャンマー文学などを読んでいた。蟲医を書くまでは残雪の影響を受けていたが、蟲医は残雪とは少し毛色が違う。

蟲医は、手塚治虫『ブラックジャック』の影響だと思う。ある意味では、ブラックジャックの本歌取りにも近いところがあると思っている。何しろ手塚治虫の治虫の名前には虫を治すとあるのだから。


あとは『新世紀エヴァンゲリオン』の影響が大きい。描写にもエヴァっぽいものが出てくる。『呪術廻戦』の影響もある。ムネヘロさんの『ムシ・コミュニケーター』も読んだ。他にも、夢枕獏『カエルの死』や『魔獣狩り淫楽編』。川瀬七緒『法医昆虫学捜査官』シリーズは少し読んだ。『動物のお医者さん』も読んだ。





文体、特に漢字・ひらがな・カタカナに半角カナを組み合わせるところは、私のオリジナルだが、シュエーデリンクという表現は私ではなく、パートナーが思い付いた語句に当てはめた。
直接の影響はないが、酉島伝法の『宿狩りの星』は読んでいた。円城塔の『文字渦』の影響はわざわざ言及するまでもないかもしれない。他にSFだと『光瀬龍日本SF傑作選』、『オクトローグ』、『ガイア』、『愛はさだめ、さだめは死』などがある。特に『愛はさだめ、さだめは死』は、英語版の朗読を愛聴していた。
J・M・クッツェーの『動物のいのち』も読んだ。『実験哲学入門』や、『実験する小説たち』は、小説を構想するのに役立っているところがあると思う。
虫の分野だと、『ステロイドの化学』、『脱皮と変態の昆虫学』、『虫の呼び名辞典』、『最新昆虫病理学』。
他にも、『AIと憲法』、『禅語百選』、『エモい古語辞典』、『政治の数理分析入門』は参考にしていると思う。『華麗島の辺録』は作中に詩を引用させていただいた。ここまで言及なしだが、『ドリトル先生月をいく』は発想として似ているぐらいで、直接の影響はない。

余談だが、作家久美沙織さんの訴訟で、「名前には著作権はない」という判決がなされ、敗訴したということがあった[1]。これについて、私は自分が作家という立場から考えて、たとえば「シュ永デ琳宮」という表記に著作権がないと主張されたとしたらどうだろうかと考える。それはとんでもない話で、私にはとても受け入れられる余地のあることではないと考える。もちろん、「リュカ」と「シュ永デ琳宮」の字の構成には、組み合わされている表記にも明瞭な差異があるが、久美沙織さんのリュカにも、シュ永デ琳宮の表記と同じくらいの重要な意味やオリジナリティが込められていたと私は信じている。
法律を知っている父は、もし主張するなら商標を登録するなどした方がよかった、と言っていた。商標権からオリジナリティや著作権、意匠権が発生するという立場のようだった。確かにそれは一理ある。でも、多くの人が子供の名前を名付けるときに考える言葉の一つ一つに意味が込められるように、作家にとっても主人公たちの名前は自分たちの子供のようなものと考えるのではないだろうか。結果的に裁判は負けだったが、この判決の意味は私にとって言葉の意味を深く考えさせる経験となった。私にとっては過去作のエターナロイドという言葉にしても、やはり自分にとって意味のある言葉だったのだ。

半角カナの誕生はパーソナルコンピューターの黎明期で、寡聞にして私は半角カナを多用した作品をそれほど多く知らない。私のように漢字やひらがな、カタカナと混ぜて使っている人は極々少数であろう。
元々、私が半角カナの可能性に気づいたのは、書いているときに横向きの表記を採用できることに気づいたという点にあった。つまり、縦書きで書くとき、「トゥワイエ」の「ワ」を半角にすることによって、



と、ワを横向きにできるのである。
この視覚的な効果はかなり大きいと思った。しかも、日本語という言語は、横向きにしても辛うじて読むことができるのである。そうすると、この読みづらい表記に一度慣れて仕舞えば、半角カナが銀行口座の記帳などに利用されることも相まって、この表記全体に人工言語的な感覚を付与することができるのである。
「シュ永デ琳宮」も基本的にこれと同じである。またこの表記には、表記を単純に半角カナにするだけでは得られなかった追加効果もある。それは読みにくさ、得体の知れなさ、雰囲気の独特さである。
これほどの追加効果を持っていながら、コンピューターの誕生から永らく固有名詞に標準文字と複合的に使用されることがなかったのであった。しかし時代はようやく、この表記に追いついてきたように思う。虫のお医者さんのいる世界という、不思議な時空間を演出するのには、こいつの存在がもってこいだったのだ。

追記:昆虫憲法はどうしてできたか

蟲医の、「虫を治す」という発想を思い付いたのは、そんなに最近の話ではない。しかし、それを支えるための土台として、やはり昆虫憲法が必要だと考えていた。
虫を治すという発想そのものはさておいて、数理的に記述された昆虫憲法という発想は、『政治の数理分析入門』を意識しているが、『てふてふ草案』そのものは、「常世の神」という「日本書紀」(720年)にある「蝶」を祀った宗教運動、エジプト文明のスカラベなどを考慮している。
昆虫憲法には、大学生の頃に勉強していたカント倫理学の影響が色濃いと思っている。カナダにいたとき、大学で哲学の講義を取り、カント倫理学の本を英語で読んでいた。
私は割とカント倫理学は好きで、特に「しなければならないからする」という義務論が、読んでいくうちに統覚や理性とつながっていくところが私の好みだ。また、この発想の前に、蟲医以前に樹木医という職業があるのは知っていたので、それも影響のうちに考慮してもいいかもしれない。
大学にいたときは、なぜ植物に命があるのに、林業という産業の中でその命を扱わなければならないのかをずっと考えていた。樹木は切られても、まだ命は残っているものなのだが、人間のエゴで材木を取ってくること自体にかなり違和感があった。しかし、私がその話をすると、周りの学生はそんなに気にしていない印象だったのを覚えている。むしろ、木を切ったあと材木にすることへのコストだとか、生産性とか、そちらの方を気にしている人が多かった。林業の世界では二酸化炭素として固定した木を切って持続可能な形で利用することは最初から常識になっていて、私の中ではその常識が――常識の科学的な正しさというよりは、利用しなければならない理由が後付けのような気がして、かなり疑わしかった。樹木の手入れが必要とかっていうけど、人工林の場合はそうだが天然林は必要ない、ならば人工林と天然林の境界線はどこにあるのか? 自然と人工はどこで対立するのか? こういうことをずっと考えていた。
帰国後、病気をして、病院通いをしながら、自分が治療者となれないことが悲しかった。そんな折に昆虫食に触れたことで、虫を治したいという気持ちを思い出した。それで一番最初の蟲医の草稿を書いた。そこから、蟲医は始まったのだと思う。


[1]主人公名「著作物ではない」 ドラクエ5、小説家敗訴―東京地裁

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