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宇宙意識プロジェクト「 」|創造性を引き出すために必要なこととは。

オンラインイベント (2021年9月9日実施)

「宇宙意識プロジェクト:名前のないミーティング」というタイトルのもとに、ご参加いただいた一般の方と、プロジェクトメンバーが、1時間半にわたって、語り合いました。
(以下、ウエイクアップメンバーの発言は名前を記し、一般ご参加者の発言は全員「P」としています。)

※本記事内に登場する人物の所属・役職等は動画撮影当時のものです。

岡本:もともと、このプロジェクトは「意識の進化」をテーマに、時間的にも空間的にも、意識を宇宙にまで広げよう、というものでしたが、前回の同様のイベントで、もう、それを超えたところにいったかも、でも、それは何かはわからない、とういうことで、タイトルが、「 」になっています。
このイベントは、特段、テーマを決めず、これに興味を持った人が集まったら何が起きるだろうか、という興味のもとに、やっています。なぞのイベント、なぞのよびかけ。

山田:その趣旨を改めて聴いて、「そうだったんだよ~」わからないことをやっている・・・そこに集っていただいているってどういうこと(笑)?皆さん、どうして、ここにいらしたのでしょうか?

P:私は、前回も参加しました。そしたら、さらに進化して「 」になっていた(笑)。何とも言えない柔軟さですね。私は、「プチ哲学」というのが好きなのですが、それは、ちょっとした言葉でも、「それって何?」と問うてみることです。この場は、宇宙から始まって、すべてのものを「プチ哲学」する場なのかな、と思っています。頭のリフレッシュ。

P:ウエイクアップの別のウェビナーに参加して、これを知りました。宇宙という言葉にひかれました。小学生のころ、宇宙少年だったので。宇宙の規模、広さに感動して。

P:この会では、何も決まっていない、好きにしゃべって、というのが新鮮です。そして、スピリチュアルな宇宙に魅かれています。自分を鍛える、能力が高まることに喜びを感じる時期がありました。20歳のころ、自分だけでは限界がある、メンバー、さらに宇宙と一体化、融合するといいな、と思っていましたね。自分がだれかと融合するというのは、宇宙と融合することだと。それで、このイベントに参加しました。

P:「知致」(雑誌)の今月号は、「宇宙」がテーマになってます。ボイジャー1号の写真が載ってますが、地球が針の先ほどの小ささに見える。その中で、ぐちゃぐちゃやってる。戦争がなくなるには、宇宙から攻めてきて、地球軍として一体化するしかない、と思っています。

山田:縣先生*1が、(地球外の)知的生命体と遭遇するのは近々だ、と話していたのを思い出します。天文学者の中では、常識らしいけど。そうなったら、人間の考えは変わるでしょうね。地球人意識になる。明治維新のときに、薩長だったのが、「日本」になったように。
    
小西:1995年に、天文学の世界ではターニングポイントとなる、地球外惑星の発見がありました。それまでは、地球が1つだけの惑星と思われていたのが、他にもたくさんあるぞ、と相対化され、次は、地球以外の生命体の発見、というのがターニングポイントになるかもしれません。

山田:人間がやっていることって、その時代時代に「こういうもんだよね」という通説を作っておいて、とりあえず、それで生きて行こう、という合意をして生きているだけ。
どこかで、それを覆すようなことが現れて、「違ったんだ!」ともめにもめて、もめたあとは、「まあ、それでやっていこう」となる。たとえば、天動説から地動説へ、とか。
だから、今、僕たちが「確か」だと思っていることも、実は確かじゃない。確か、と思うことで、心の安定を得ているだけでね。「とりあえず、そういうことにしておこうね」としているだけ。
学会でも、それ以外のことを唱えると、異端にされてしまう。でも、異端が優勢になると、コロっと変わりますよね。

P:信じると楽、ということですかね。

山田 :信じていると、心が楽になる。信じるのはいいのだけれど、信じているもの以外については、排他的になる傾向もあります、人間の性質として。それは、「くせ」ですね、人間の。

P:内と外を分けたがる。

P:人間は、自分が見たり、手で触ったものしか信じない。それ以外のものは、宗教の世界だと思っている。信じることは自然ではあるが、(何かを)信じることは、断絶も生む。それって、あぶなっかしいですよ。それを人間はずっとくりかえしている。なぜ、繰り返すのか?それを考えると、人間は、あまり変わっていませんね。

山田:それがずっと繰り返されるのはどうしてなのか?わからないですね。

P:宇宙が生まれて138億年。それを1年間とすると、仏陀以降の人間の歴史は、4秒。4秒じゃ、何も学びようがない(笑)。

山田:地球誕生から46億年、生命誕生から36億年。ホモサピエンスは20万年か30万年。以前、このプロジェクトで、「46億年の旅路」というツアーをやったことがあります。そのときのツアーでは、一歩が50万年。ホモサピエンスの歴史は、1歩もいかない(笑)。

久慈:「人間は、どこから来て、どこへ行くのか」という永遠の問いがあります。そのことを考えると、あまりにも不安定になって、何かにつかまらないと、不安定になって、日々を生きていけない、という感じもある。
柳田国男の、確か『遠野物語』だったかに、彼が心に残る人のことを書いています。
ふつうの、田舎のおじいちゃんなんだけれど、いつもにこにこしていて、おだやかで、しかも存在感がある。彼がその人に、「なんであんたは、いつもそんなにどっしりしているんだ?」と訊いたら、おじいちゃんは、「わしは死んだら、あそこの、ご先祖様になるんじゃ」と答えたといいます。老人の指さす先には、裏山の先祖代々のお墓が並んでいた、と。
自分が行く先を本当に信じられる人は、強く生きられる、足が地について生きることができる。何ものにも、まどわされずに生きることができる。そこに行けるかどうかが、現代の私たちへの問いかもしれないな、と思います。「信じる」ことの強さ、排他的にならない強さ、というか。

山田:ぼくは、「信じる」の前の段階があるように思いますね。「信じる」は、何かを作り上げようとする感じ。信じる、の前には、感じる、がある。感じ取る、自分の身体や心の状態を含めて。そこで感じ取ったものを、信じるようになる。
それは、自分の実体験から来ていて、修験道(山伏)の修行をしているんですが、まず感じ取る。森にただ一人でいると、「感じる」という感覚がどんどん広がっていくし、深くなっていく。そうすると、哲学的に「人間とは何か、生きるとは何か」という思考の中でくみ上げるものとは、ちょっと違うものがある。確かに「感じ取れるもの」があるんだけれど、それは、言語化はしにくい、世の中に流通しやすいものにはできないです。
柳田国男の、そのおじいちゃんは、日々生きながら、ご先祖様や山を感じ取っているのではないか。その、確かにあるものとして。
ぼくの経験では、そう。確かにそこにある、と思える。拠り所になる。そのことを「ある」としておける、目に見えなくても。

久慈:「目に見えなくても」と言ったけれど、でも、そのよすがとして、山なりお墓なりが、必要なんでしょうかね。

P:その話に、とても共感するものがある。父方の祖父母は、田舎で農業をずっとやっていたんですが、祖父母は、やはり、ご先祖様を、感じて、信じていたと思います。感じたものを、受け入れているような・・・。それが、「信じる」ということかと。そうすると、決して排他的にならない。内と外を分けていない、信じ方ですね。

久慈:その「感じる」は、自然と一体化することなのでしょうか?

P:「感じる」とは、すいこまれていく、包み込まれる感じで、安心する、大きなものに包み込まれる感じですかね。ここにいる自分は、単なる1つのプロセスであり、それは、ご先祖様を含む、全体の1つなんだ、という感じ。だから、安心する。赤ん坊が母親の中に包み込まれているような。

P:山の奥に住んでいる木こりが、とてもいい顔をしている、という話はよくあります。
欲もなく、山の精と一体化しているようで。
我々、都会に暮らしている者は、大いなるものとは、別世界に暮らしている感じです。自分はメーカーに勤務していますが、工場の職人さんの方が、木こりに近い。営業みたいに、人にまみれて暮らしていると、全然ダメですけど。職人は、ちょっと、通じるのもがありそう、雰囲気として。職人技って、感覚で得られるものだし、プラントみたいなものを、生き物的に、知り尽くしている、見えているって感じです。

山田:「没入する」感じですね。自分と、そのものしかいない。木こりも、職人も。
自分も、山にもいくし、森にもいくし、田んぼもやる。そこにいると、没入する感じ。他がない。それと自分しかいない。没入した状態で感じ取るのが、包み込まれる感じだったり、境界線がない感じ、にじんでいる感じ。
ぼくらは、いつもは、境界線を作って生きている。私とあなた、人間と動物、機械と自然、のように。境界線を心の中で作っている。本当は、それは幻想なんですけどね。実際には、そんな線、ないでしょう。
没入すると、その境界線がにじんでいく感じ。分かれていないから、当然、ひとつ。

P:山へ入ったり、修験道の時は、本当に没入しておられると思うが、横浜の家に帰ってきたら、その感覚はどうなんですか?

山田:いい質問ですね。両方を味わってみると、人間の順応力ってすごいな、と思います。横浜に帰ると、没入感はうすれる。都市は、すべてのものを、「分けて」作っている。ぼくらは、意識しないけれど、そのバーチャルワールドにとりこまれている。気づくと、そこに取り込まれている。もちろん、完全には取り込まれませんけど、没入感が何度も沁み込んでいるから。
むしろ、日常の中に、没入があればいいと思いますね。いつも没入しているわけではなく、ある瞬間、没入があって、またとぎれて、また没入があって、またとぎれて、というような生活。ぼくは、毎朝、庭に出て、はだしになって、5分間立っているんですよ、雨の中でも。それが、没入する時間。コーヒーを飲んでいても、没入することはできる。

P:それと「集中」はちがうんですか?

山田:う~ん、よくわかりません。

岡本:私は、植物の世話をするときは、無になっています。無心な感じが、似ている感じ。女性の中には、料理しているときには何も考えないから好き、とか言う人もいますね。

山田:没入を、非日常のものにしないって、大切なことかもしれません。「グランドキャニオンにいけば没入できる」だと、毎年行かなければならなくなる(笑)。日常の中に、「没入」はある。遠野物語の、おじいちゃんは、きっと没入しているんですよ、山見たりして。だから、いい。

P:没入に境界線があるわけではなく、すーっといって、すーっと帰ってくる。
明確な境界線はない感じ。

山田:すーっといって、すーっと帰ってくる。帰ってこなかったら、それが死ぬ、ということ(笑)。

P:自分の心の中にあるものが、ちっぽけな自分を離れて、幽体離脱じゃないけど、すーっと離れていく。

久慈:さっきの、「どこから来て、どこへ行くのか」という問いで、ちょっと信じていることがあるんです。自分の身体が死んだとき、それを構成していた原子とかが宇宙の中に漂っていく。その中には、さっきのご先祖様の原子も、ネアンデルタール人のも、一緒に無数に漂っている。実は、今も、このそばに、ひょっとしたら、亡くなった友だちの原子がいるかもしれない。
私もそっちへいったら、宇宙の中にこうやって飛ぶんだな思ったら、死というか、不安に思っていたことがすっと消えて、「なんだ、ここにいるんじゃん」という感じになる。

P:そう思うと、死んで自分の肉体が消滅するなんて、怖くない感じがする。

山田:生と死を分けていることが、いろんな苦しみの根源にある、とはよくいわれている。それを超えるためのメソッドがいろいろと考えられているわけだけれども、それは、分けて考えているからであって、そもそも、分けなければ、発生しない。
すーっといって終わり。終わりじゃなくて、宇宙の中を、漂っている。魂、スピリットという言い方しかできないから、そう言うけど、それがただ、漂っているだけ。
まだ、死んでいないので、実感はないけど、死にかけたことはあるので、感覚としては、抜けていくんだろうな、と思ってる。

P:自分の過去からのご先祖さまのつながり、そして未来にのびているつながり。そのつながりからみると、今の僕たちは、どう見えているんでしょうね。長い過程の1つとして。

小西:私たちは、赤ちゃんとして生まれるわけですが、「生まれたときから、死に始めている」という言い方もできます。生まれたときから、生々変化しつづけている。そしてまた、どこかに還っていく。

P:宇宙ができたときのことを考えると、原子が集まって、星ができて、地球ができて、生物ができて、人間ができて。そして死んだら、また原子に還って、数億年後、それが集まって何かになって、というのが未来永劫、何かの形でつづいていく。

小西:ビッグバン以降、そういうことがずっと続いている中に、ぼくらもいる。

岡本:縣先生は、「私たちはみんな、星の子」と言っておられますが、それはそういう意味だと思います。どんな物質も、星屑からできている塊というだけだから。

山田:もし、大いなるつながりの端っこから、今の自分たち、今の世の中を見ることができたら、今の世の中を作っているシステムのほとんどが消失すると思う。
今の世の中を作っている一番大きなシステムといえば、資本主義、貨幣経済ですね。それが、まず、いらなくなる。そんなものは、何の必要もないじゃないですか、すべて、分かれていないんだから。あなたのお金も、私のお金もない。「所有」という概念が存在しえない。そういう概念を思いつかない。
そんな社会形態は、フィジーとかでは、今でもあるようですね。酒場にいって、自分のビールを隣の人が飲んでも、だれも怒らない。だれのものでもないから。日本でも、(沖縄の)久高島では、土地の所有、という概念がない。何歳かになると、耕す土地が与えられ、死んだら、また返す。そして、また新しい人がそれを耕す、ということが行われていた。今はどうか、わからないけど。
そういうことって、古い時代にはふつうにやっていたわけで、その意識が獲得出来たら、とんでもないことになる。今、贈与経済とか、与えたら返ってくるよ、とか、シェアリングエコノミーとか言っているが、それって、もともとやっていたことではないでしょうか。

小西:贈与経済が復活してくるのかもしれませんね。交換経済の発展形が資本主義なわけですが、原初の形の贈与経済が、復活するかも。

山田:知り合いには、そういう人がいますよ。自分の持っているものが必要な人がいれば、なんでもあげちゃう。そうすると、さらに膨大なものが、どこかから返ってくる。モノだったり、心だったりが。そうやって生きている人がいる。現代のこのシステムの中でも、そういう人が実在してるんです。

P:昔の、長屋っていいよな、と思いますね。隣のおやじが子どもをしかったり、お醤油なんかを貸し借りしたり。

P:長屋もいいんだけど、自分の長屋は大切にするが、よその長屋は、知らん顔をする、ってこともありますね。「線を引く」のは、ここにもある。

小西:どこまでを、自分の仲間と見ることが出来るか、がチャレンジですよね。どこで線を引くか、どこまで広げていけるか。

P:どこまでいっても線を引く、なら、もう線なんかひかなくてもいいじゃん、というのがこの宇宙意識のプロジェクトの目的なんでしょうか。

山田:ただ、自分たちは、このシステムの中で生きているんです。でも、そうでありながら、宇宙は分けられていない、という平和な状態、没入の状態、を感じ続けることが大切だと思います。この社会に生きながら、そういう感じを持ち続ける、ということですね。
そういう意味で、「没入」は、今日のキーワードだなあ。

P:どんな小さなことでも感動できるセンサーを磨きつづけて、没入できたり、感動できたりしたい。センサー磨きが大事ですね。一生、さびつかないようにしたい。

小西:在宅勤務で家にいて、散歩したりすると、こんな身近にも、いろんな自然があるんだ、ということを気づかされることがありますね。センサー磨き、大切。

岡本:コロナ下でのちょっとした感動は、いっぱい味わっていますよ。このごろ、園芸をやってるんですが、いろんな虫や蝶の存在にも気づいたし、園芸を介して、近所の人とも気軽に会話したり。水をやったりしてると、通りかかった近所のおばあちゃんと話して、その人が沖縄の離島の出身なんだ、ということがわかったり。近所の人とのやり取りがすごく増えて、そこに自分が喜びを感じている、ということを発見しました。
今、その庭に椅子をおいて、気軽にすわっていってください、という実験をしているところです。コロナ下なので、大々的にはできないけど。でも、コロナがなかったら、そういうことはやっていない。

山田:楽しいよね、そういうのって。

岡本:今日みたいな場では、宇宙とか、哲学に頭を巡らせるけど、日常の中で何をするかとか、何を感じるかということが大事だな、という実感がわいています。ちいちゃいことだけど。

山田:いや、ちいちゃいことの中にこそある、ってぼくは思っていて、特別なものを探しに行く時代はもう終わったんじゃないかと思う。
特別なもの、ってビジネスになる、世界遺産とか。でも、「特別なもの」というのは、本当は特別じゃない。特別なものを追い求めていると、本当に大切なものを見失う。日常の中にある、おばあちゃんとの会話こそがスペシャル。それは、お金をだして買えるものではないじゃないですか。それをたくさん持てたら、それが幸せ。

P:そういう何気なさの中に、ふっとした気づきがある。今日、うちの二階から見たら、こぶしの花がもう咲いてて、緑の葉っぱの中に一輪だけ白い花が咲いているのを見て、何とも言えない気持ちになりました。月下美人も一か月ほどまえに九輪バッと咲いたのに、また、二輪咲いて・・・。

P:ぼくもトレランで走ったりもするけど、走っているときの気持ちよさとか、分けられていない、シェアできている感じ、受け取れる感じ、といういい状態のものを、どうやって仕事とか日常生活に持ち込むかというのがテーマ、と最近思っています。
これまでは、仕事モードというのがあるように思ってきたけれど、より自然な自分というのを出せると、人との付き合い方が変わるような感じがしていて、それを忘れないように、海の写真とかを携帯の待ち受けにしたりしてます。

山田:日常の中に、「アクセスポイント」があるのが、すごく大事だと思っているんです。「どこでもドア」じゃないけど、「そこを開けると、宇宙だった」みたいな。日常の中に、何かのアクセスポイントがあれば、そこから、スッと通り抜けられる。そこがないと、ずっと壁。でも、それを抜けられると、宇宙だったり、海だったり、おばあちゃんとの会話だったり・・・。ほんとは、いつもスッと開いているんだけど、見えない。

自分は、エグゼクティブ・コーチングという、企業のトップの方へのコーチングもしているんですが、そういうときって、高いビルの上の方の、ふかふかのじゅうたんの部屋に行ったりする。でも、そもそも、それって、超不自然な場所ですよね。人間が、こんな高いところにいること自体が不自然ですよ、鳥じゃないんだから。そこに長時間いるって、むちゃくちゃストレスなはずなのに、慣らされちゃってる。
最初、とてもイヤだったんだけど、あるとき、気がついたんですよ。たまたま、その部屋の壁にさわったんですね、そしたら、「これって、地球にあるものとおんなじなんだな」って。地球由来、地球のもので出来ている。でも,、ぼくがそれを「壁」と思ったから、それが、「壁」になっていた。実は、みんな地球由来、宇宙由来のもの。仲間っていうか、お友だち、ビッグバン以来の友だちじゃないか。
本当にそう思った瞬間があって、ほんとに、そこから違う感じになった。「自分がそうしているだけなんだな」、と思ったら、けっこうアクセスできるようになった。

P:まさに、自分が境界線を作っていた、ということなんですね。違ったものとしてとらえるのか、それとも、ビッグバン以来の友だちと思うか。

山田:というふうに、変な話かもしれないけど、一瞬にして人間の認識は変わる。思い込みが外れる瞬間とか、皆さんも、人生の中で経験しているでしょう。ぼくらはただ、幻想をつくって、その中でプレイして、一人芝居やっているだけ。自分が書いた脚本で、一人芝居を、延々40年やりつづけている、とかね。なんで飽きないのか。楽しいんでしょうね。ただ、シアターのドアを開けたら、「あ、一人シアターだった」と、気がつく(笑)。

P:そういう「一人シアター」であることに気づかずに一生を終える人が、圧倒的多数なんですよね。ずーっと気がつかずに過ごしたら、本人は、きっとハッピーなんですよ。知らないんだもん。

山田:ぼくは、そのシアターの中にいるときと、そとに出たときのハッピーを比べない方がいいと思うんですよ。どっちがいい、とか言い始めると、やはりそこに区別、が生まれる。
映画で、すごい衝撃をうけたのがあって、「トゥルー
マン・ショー」って、見たことあります?トゥルーマンが、幸せに生きてるんだけど、あるとき、気づいちゃう、自分がどこにいるか。自分の生活すべてが、舞台の上みたいに、周りの観客みんなに見られていたことに気づく。

P:さっきの、「壁も同じ物質」ということですけど、今の物理学によると、すべてのものは16~7個の素粒子からできているのだけれど、弦の振動によって形が変わったり性質が変わるだけ、ということらしい。弦の振動が変わるだけなので、もともとは同じようなもの、と思うと、意識が変わる気がします。
振動、コーチングでいう、「響き」ですよ(笑)。

小西:宇宙は、響きでできている。

久慈:響きがあれば、共鳴するわけですよね、何かと。

山田:おもしろい。

(しばし、全員沈黙)

岡本:この沈黙もおもしろいですね。

山田:沈黙って、人生の中で、すごく貴重じゃないですか、日常の中で。プライスレスなもの、得難いもの。気まずさのただよう沈黙じゃなくて、本当に満たされた沈黙。もう、しゃべる必要ないしな、と、ただ、そのスペースの中に、ぷかぷか浮いてる、という。今の沈黙は、ちょっとそういう雰囲気だった。
ビジネスのミーティングのときなどに、そんな沈黙が10秒でもあったら、創造性が爆発すると思います。すべての日常の中に、沈黙、スペース、空間がなさすぎ、と思っているので。
今、ワーケーションがはやっているけど、バケーションの語源は、vacant、つまり空白なんですよね。だから、空白を、仕事の中に持ち込もうとしているのだけれど、みんな、ワーケーションでも、「仕事」をしてしまう、環境を変えただけで。
ワーケーションというのは、本来は、「空白を作る」ということだと思うんですよ。

この、何とも言えない沈黙の中に身を浸している、ってほんとうにいいですね。

(再び、沈黙の時間)

P:お互いに沈黙でいられるっていうのは、そういう関係性、信頼感があるから。会社の中でこういう沈黙がないというのは、そんな関係がないから、ではないでしょうか。

小西:会社で、「沈黙」になると、「何かしゃべらなきゃ」と思ってしまう。

P:さきほどの、「満たされた沈黙」だけど、自分は、今日初めて、皆さんとお会いして、ここまでご一緒して、ああいい時間だなあ、という満たされた沈黙、感覚が、すごくよくわかりました。そして、そもそも、こういうコミュニケーションの場って、会社にないな、と。明確な目的を持ったコミュニケーションか、利害関係の中でのコミュニケーションか、雑談か。こういう、「満たされた沈黙」は、会社の中で経験したことはない。

小西:「満たされた沈黙」で浮かんでくるイメージは、それこそ、ビッグバンです。なにもないのだけれど、真空の中で、実はいろんなエネルギーがうごめいていて、ある瞬間にそれが爆発して、ビッグバンになって宇宙が始まった、みたいな。
満たされた沈黙の中では、皆さんの中に何かがうごめいていて、必要なときにそれが爆発して、ばーんと花開く。創造性が爆発する。

山田:なるほど、それが、ビッグバン。

久慈:そんな沈黙って、静止していないっていうか、心地よいゆらぎがありますよね。
1/fのゆらぎでしたっけ。

山田:それがさっき話にでた、「振動」じゃないですか。ゆらぎの元をたどっていくと、ある種のバイブレーション。物理学的にいうと、振動がかわったとたんに、ある物質が現れてくるわけですよね、形を変えて出現するわけです。その出現がおきていくスペースがある、ということなんだと思うんです、そこに。それがクリエイティビティ、ということなんじゃないかと思ってますね。

P:会社での沈黙もこわいですけど、家での、ヨメさんとの沈黙も、めちゃこわい。お互いに別々のことしているときの沈黙は、オーケーだけど、何もしていなくて一緒にお茶飲んでるときの沈黙が、一番怖い。(みんな、爆笑)

山田:それは、最高に怖い沈黙ですね。

岡本:その沈黙の中で、おしまいの時間が来てしまいました。
では、最後に、皆さんにチェックアウトの一言をお願いします。

小西:沈黙を味わう、余白・スペースを味わう。

P:境界線がない世界、ビッグバン以来の仲間。世界が広がった。

P:最後の沈黙をみんなで味わってみて、会社ではなかった経験。この時間をゆっくり反芻して、次に進む感じ。会社でも、このような沈黙を味わって、じゃ、次にどう進む、となったら最高。

P:参加して楽しかった。沈黙、スペース、は結果であり、始まりなんだな。響き、波動、波長を、非言語的にも分かち合ってつながる。沈黙していても苦じゃない。そこから新しい物事が、関係性の中から生まれる、ということに気づく。

岡本:目の前に出てきたものを、おもしろがる、楽しむ。トラブルや、大変なことも。

P:沈黙のときの揺らぎ。それがある閾を超えると、何かがポコッと生まれる。アイデアや、プラン。

山田:最高の会話をしてしまったなあ。この1時間半くらいが、「創造」ということなんだな。終わりがない、無限を感じた。満たされている。

久慈:原子になった、亡くなった友だちも、ここに一緒にいるみたいでした。

P:日常から離れて物事の本質に迫るのはいいが、毎日やってると変人になるかも。ときどき、参加したい。

*1縣 秀彦先生:国立天文台准教授。ウエイクアップのイベントのスピーカーとして、何度か、「宇宙と人間、社会」についてスピーチくださっている。

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