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刻印することの意味

かつての自転車部品は、現在のそれらとは違う様相を呈していた。
engrave エングレーブ と呼ばれるものもそのひとつだ。

ブランドや品名などの「銘」を立体的に刻印してしまうのだ。その方法はいろいろあろうけれども、印象は「彫られた」感じになる。

今日ではこんな手間のかかる作業が行われることはまずない。エングレーブが行われていた時代の次は、プリント=印刷であった。

言わずもがなではあるが、プリントと「彫刻」では存在感がまるで違う。プリントは巨視的には2次元的だし、「彫刻」は3次元だからだ。

彫られた「銘」の大半は文字である。文字はふつう、テクストとして2次元内にあることが了解されている。

平面なのである。平面の中に存在しているのが文字なのである。そうでなければ、大量の文字が集積された書物というものが成り立たない。

しかし、活版印刷の時代においては、文字を生み出すものは活字であり、当然ながら活字は3次元的である。

だからこう考えることもできる。文字というもののオリジナルな姿は、2次元=平面ではなく、3次元=立体であると。

ただし活字そのものは鏡像であるから、文字がそのまま立体化したわけではない。そこで、文字には正像のまま立体化されることが求められるのではないか。

そういうセンチメントというか、欲望というか、憧憬というか、文字のような象徴が3次元化、身体化することへの希求が人間の裡にあるのかもしれない。

こんな面倒くさいことを言わず、ただ、彫刻や刻印がカッコいいからそうしたのだ、という理解も当然可能であろうとは思う。

思うが、その背景には、やはり何か、立体化されることに対する説明のしづらい本源的な欲求があるように感じられてならないのだ。

文字とはまた言葉でもある。言葉の持つ意味、重み、そういったものを身体化、肉体化しようとするなら、ひとつの方向性はそれを立体的に刻み上げることであって少しもおかしくない。

この画像もまた『自転車フェチの独り言』のp027で使用したもの。被写体はスギノ・プロダイナミックである。

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