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国立の3月のかけら

国立(くにたち)の3月を私はほとんど知らなかった。数少ない例外に、最初に国立を訪れたときのことがある。あれは1979年の3月だ。

私大の受験が終わり、J大に行くことになると思っていた私はそこの学生サービスセンター(そういう名称だったかどうかは定かではないが)みたいなところで、学生向きアパートの紹介を受けた。ちょうど今頃、3月の中旬だったはずだ。

地方都市の浜辺の田舎で暮らしてきた私は、できるだけ都心から離れたところがいいと思っていた。日も当たらないところとか、騒々しいところとかは勘弁願いたかった。

J大は中央線沿いだから、物件も中央線沿いに探したら、三鷹の向こうの国立というところに安くて条件の良い物件があった。今はトイレやバスルームが室内にあるのが当然だろうが、当時はトイレは共同、風呂場はなしの物件が多かった時代で、その頃にトイレは室内、共同の浴室があるってことで、もうそこでいいんじゃないかという気分になった。

家賃は安くても、都心から遠いから定期券の金額はかかる。しかしその頃はそんなこと、ほとんど気にもとめなかった。ともかく静かなところに住みたかったのだ。

J大で紹介を受けて、実際に物件を見に行くことになり、中央線に乗った。時刻は夕方に近い午後だったと思う。中野から先、中央線快速は高架になる。そこから見えた、地平線までビルや屋根が並んでいる風景は自分をいささかうんざりさせるのに充分だった。

しかし三鷹から先で様相は変わった。緑が多くなり、風景の中に土が見えるようになった。ああ、これなら自分にも何とかなる、と思ったものだ。

国立で降りて、アパートへ行くまでの間に日が暮れた。はっきりとは記憶していないが、たぶん大家さんの時間の都合があったのではないかと思う。私は少し国立を歩いた。

まずまず良いところだと思ったはずだが、そのときは中央線北側の旧鉄道研究所への引き込み線があった辺りも歩いてみた。線路沿いの道を歩いていたとき、特急の「あずさ」が通り過ぎて驚いた。静岡の東海道線では見たことのない車両だったから。

そのあと、アパートと同じ敷地に住んでおられる大家さんの世話で部屋を見せてもらったはずであるのに、そのことはとんと覚えていない。借りた部屋の最初の記憶は、それからしばらくして母親と一緒に賃貸契約書を作りに来たときのことになっている。

国立を初めて訪れたその日の夕刻以降のことは、まったくと言っていいほど覚えていない。その日のうちに静岡まで帰ったのか、それとも横浜の親戚のところに泊めてもらったのか、さっぱり記憶がないのだ。

しかしいずれにしても、それは私が知っている数少ない国立の3月のある日だった。

結局、私はJ大には行かなかった。なぜなら、アパートを決めてまもなく、第1志望のW大から補欠合格の知らせが来たからだ。すでにJ大には入学金などを納入してしまっていたが、両親は私がW大に行くことを許してくれた。

W大は中央線沿いではなかったものの、中野から地下鉄東西線に乗り換えれば、国立からはほとんど乗り換え1回だけで済む。私は下宿アパートを変える必要はなかった。

あのとき、漢字一つ書き間違えなければ、補欠入学にはならなかったのではないかと長年思ってきた。そのためにJ大に払った入学金と初年度授業料が宙に消えてしまったのだから。実際、J大からはなぜ入学手続きに来ないのかというような連絡が何度か書面で来ていた。

だが、今日のこの記事を書いていて、私ははっとなった。国立は私にさまざまな影響を与えた人々と出会ったかけがえのない街である。彼らを知らなかったら、私のこれまでの人生は別のものになっていただろう。

もし、補欠入学でなくスムースにW大に合格していれば、J大の学生サービスセンターになどに行くことはなく、そこで国立の下宿アパートの紹介を受けることもなかったはずだ。大家さんは「今年からJ大に案内を出すことにした」と言っておられた。

とすれば、私が国立に導かれたのも、W大での試験でのミスひとつということになる。J大に先に合格していたからこそ、私は国立に住み、一年くらいして国立で友人を作ることができるようになったのだった。

今になってそんなことに気付くとは予想だにしなかった。そういうことに気付くつもりでこの記事を書き始めたのではなかった。もはや40数年も前のやや苦い記憶に、今ここですっと胸に落ちる道筋が見えてきたことが、実に不思議である。書かなければ、一生分からなかったかもしれないことが、確かにこの世界にはあるのだ。


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