見出し画像

人生の内側の旅、外側の旅

旅にも人生の内側を行くものと、外側を行くものがある。旅は基本的には人生の外側に向かおうとするものだが、ごくふつうの人の考える旅は、そういうものではない。

生きている間にできるだけ見聞を広めたい、素晴らしい風景を見たい、見知らぬ土地で旨いものを食ってみたい、というようなありふれた動機に基づく旅は、人生の内側を行く旅である。

人生の内側を行く旅では、人生を超えた世界へのアプローチは難しい。生きている間にしか通用しないものが旅の成果である。それでも、体力や財力に余裕のある高齢者はしばしば旅に出掛ける。それは、人生の外側にやがて旅立つことの準備なのかもしれない。

この世界の経済システムや浮世の価値観と関係なく行われる旅は、人生の外側を目指す旅になりうる。いわゆる大量消費主義的観光旅行、物見遊山の旅が人生の内側の旅であることと正反対に、人生の外側に向かって歩を進めるのだ。

しかしだからといって、人生の外側にある別の価値体系にそう簡単にたどり着けるわけではない。昔のヨーロッパの徒弟制度では、弟子は旅をし、同じ場所に三日とどまってはならないとされたそうだ。

そうではあるのだが、人生の内側の旅にも、人生の外側に対する憧憬のようなものが、ある部分、入り込んでもいる。神社や寺院を巡る旅は、本人がそう意識していなくても、宗教や哲学への何らかの傾倒がそこに存しているのであって、それは人生の外側へ向かう旅の萌芽でもある。

しかしまた、人生の内側の旅は、人生との間に大きなギャップがない。意気揚々と出掛けて、楽しんで帰ってきて、そしてまた日常にスムーズに戻り、次はどこへ行こうかと考える。

人生の外側への旅ではそういうわけにはいかない。体験によっては、深く考え込んでしまうのである。そして考え込むような旅をした後では、日常生活に戻るのはけっこう難しい。だから放浪を続けてしまう人もいる。放浪を続けたところで答えが出ることは稀なのだが、そうせずにはいられないのである。

人生の内側の旅は、この世に於ける幸福を求めるものであるから、目的も手段も明快である。それが実現するかどうかは別として、旅することに特段の哲学が必要なわけでもない。

人生の外側の旅は、それ自体がひとつの哲学のようなものである。もちろん、日本一周とか世界一周とかいうような勲章が欲しい場合だってあるだろうが、多くの場合において、得られるものは浮世の生活の役には立たない。

それでも、人生の外側への旅には、それでなければ得られないものがあるのは、まったくもって確かなのだ。

ご支援ありがとうございます。今後とも、よろしくお願い申し上げます。