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とうとう、湖澄は頭上で騒がしくしている得体の知れない存在を場外に飛ばした。

長編ファンタジー小説 獣の時代〈第1部〉

第1章 彼女と魔法と吸血鬼①

 反転した鵺が突き立てる、鋭い鍵爪が生えた両足を黄金の楯と三叉戟で受け止めた白藍はくらんの四つの眼は爛々と赤く輝き、2枚の舌が見え隠れする口元から「ヒィー」という声と共に青息を吐き出した。夜風に乗って流れた息を浴びた治神団の数人がバタバタと倒れる。

 

「あれは天部!」

 高みの見物を決め込んでいた湖澄こすみは思わず体を乗り出した。
 陰陽師が出したものは間違いなく造られた人形だ。その人形が豹変した瞬間、彼女は天部の存在力を感じた。彼女自身が実際に天部を知っているわけではない。だが解って・・・しまったのだ。
 天部は天界に住む天人でヒンドゥー教を守護する人々だと僧侶である叔父から教えてもらった事がある。

 人の世にあるまじき存在。

 薄暮色へと染め直された唐衣の、その背後に光背のように浮ぶ崩れかけた血色の種字しゅじ。字そのものも揺らぎはっきりとした形にならない。

 人形に降りた天部という存在自体が揺らいでいるようだ。

 だとしたら、自分の中のどこかであれは天部だと認めながらも、感じていた違和感に納得がいく。陰陽師は何らかの儀式なり力を用いて天部の力か存在の一端を人形に入れる事ができた。種字が揺らぐのは、人形の中の天部の力が人の世に在ることを拒絶しているせいなのか。

 辻褄の合わない存在に首を捻る湖澄の眼下では、白藍の下段の腕=中肢によって動きを封じられた鵺が何とかその手から逃れようと体をくねらせていた。だがいよいよ左の上肢でもって喉元を締め付けられ、身動きが取れなくなった。三叉戟の先端が近づいた胸部周りの構成物質が大きく抉れ、その中心に向かって身体中からルビー色に輝く粒が集まってくる。

 もしかしたら、鵺の中に散った龍脈の結晶かも知れない。

 なおも苦しみもがく鵺の体からすぅーっと後肢が消えた。逃げるために身体を変化させたのか、それとも抵抗することで力を使い、身体を構成する物質を消耗したのか。少しばかり身軽になった鵺は白藍の手からするりと抜け空中に漂い逃げた。すかさず、三叉戟に飾られたレリーフにあしらわれた赤と黒の顔が抜け出して追いかける。

「あれが、陰陽師の力なのか」

 以前に知り合いの魔界人から聞いていたものとずいぶん違うと、秋山は身震いした。普段なら憎たらしいほどに強い砥上の『正』の氣のせいでかなり気分も持ち直したが、不気味な人形と鵺の戦いは想像していたよりも静かで、別の意味で気分が悪くなった。だが今は自分の気分や体調を気にしている暇はない。人形の変化に気分が悪くなり砥上の背中に寄りかかってしまったが、当の本人の様子がその辺りから次第に怪しく変わってきたのだ。

 羽毛に埋もれた鳥顔故に表情はわからないが、いつになく鵺と人形の戦いに集中し、まるで見えない綱に引かれるように体を前のめりにさせた。そしてとうとう、鋭い嘴の先端から涎を蜜のように溢れ出しながらそこへ向かおうと羽ばたき出したのだ。もう、気持ち悪いなんていっていられない。こんな状態であんな異様な場に降りたら一体どうなるのか。鵺と共に陰陽師に捕まるか、或いは鵺か人形に喰われるか。状況から察するに喰いにくるなら後者の人形に違いない。

 当然どちらもご面である。正気だったら砥上も絶対嫌だというに決まっている。

 「お前やめろ、何考えてんだバカヤロウ」文句ではあったが、とにかく必死に声をかけ広げた両翼を両手で抑える。耳元で騒いで気づいてくれることを祈るが相手は筋肉の塊で、それが無意識ではあるが故に全力で突進しようとするのだ。余裕なんてあったものじゃない。

 正気に戻す策なんて考えている暇などもちろんない。とにかく砥上の降下を阻止するために抑えるしか出来なかった。

 だがしかし、とうとうその手からするりと抜け出してしまった。

 「やべっ」しまったと後を追うべく秋山が反転したその時、砥上の体が下からの何らかの強い衝撃によって弾かれた。見事なノックアウトをくらったボクサーよろしく、回転しながら鼻先を掠めていく巨大な猛禽類。辺りに漂う冷気と細かい氷の塊の中で、その目は完全にイッていた。

 100m近い空中に浮かび、さらに遮蔽の魔力に守られた自分達の存在に気付いたものがいる。確かに少々騒がしくしたが、周囲に逆巻く気流で下には届かないはずだ。

 どこぞへと飛んでいく砥上を追いかけようとしながらも秋山は動きを止め、暗い森に浮かぶ光の広場を見た。

 違う。あの連中は誰も気づいていない。怪しげな人形を使う陰陽師さえも、人形の制御に集中しているようだ。
 もっとよく見ていたかったが、砥上の保護が優先だと心が騒ぐ。渋々視線を地上から離したところで送電塔が目に入った。

 気に急かされながも目を細めほんのひととき注視していたが、長い時間はかけなかった。樹冠とちょうど同じ高さあたりに隠れるような人影が見えた気がしたのだが。人影はおろかリスの姿さえ見えない。

 気にしすぎか。

 何処かに飛ばされた友を保護すべく、今度こそ本当に奇妙な闘いに背を向け飛び去った。

 
 行ったようね。

 姿を隠しているのをいいことに、騒がしい気を撒き散らす何者かに向かって思い切り力の塊を投げつけてやった湖澄は、それらの気配が消えたの確認して再び眼下に意識を戻した。

 人形の手から逃れた鵺が引かれるように治神団の方へ飛んでいく。まだ立つこができる、人形や鵺の存在力の影響を受けていない人間を喰らい、再び身体を造るエネルギーを得ようと言うのか。 

 しかし、三叉戟のレリーフから抜け出した二つの人面が鵺に纏わりつき、同じ場所でウロウロして前に進まない。そうこうしているうちにとうとう人形が追いつき、鵺は再び捕えられてしまった。

 三本の腕で抑えつけられ更には二つの人面が絡みつく。三叉戟の先端が近づくと鵺の体はまた形を変え、中心にルビー色の砂粒の塊をつくる。苦しげにもがけばもがく程、鵺の身体は締め付けられていった。

 どうあってももう逃れられぬと悟ったのか、鵺は悲しげな鳴き声を3回吐き出した。すでに声から雷の様相は消え、子鹿のようなか弱い声だった。
 そして直後、派手な音を立ててその身体が破裂した。

 辺りに汚泥のような猛烈な悪臭と鼻をつく汗臭い水蒸気が発生する。幸いにも霧というよりは煙に近く視界はすぐに晴れた。移動式ライトの灯りに照らされて、鵺の飛沫を浴びた白藍の姿が浮かび上がる。
 顔や手や着物は酸を被ったように爛れ溶け、先ほどまでの勇ましさはない。空中に漂っていなければ、朽ちた堂に置かれた忘れ去られた天部像のようだ。

 その周囲に浮遊する半透明で光を発する複数の球体と人面のいる景色は、恐ろしくも幻想的でさえある。

 陰陽師を含めたその場の人間達が静まる中、白藍の顎ががくりと垂れ凄まじい絶叫を響かせた。悔しさか悲しみか鼓膜を劈くような叫び声に皆耳を塞ぐ。だがいくら力を込めて手を耳に当てても、頭が割れんばかりの衝撃を塞ぐことは出来なかった。それは湖澄も同じで、落ちないよう送電塔の柱に片腕を巻き付け耐えるしかなかった。

 そのような状況にありながらも、陰陽師の「ちっ」という舌打ちがはっきりと聞こえた。続いて大きな柏手がひとつ。

白捻常衣はくねんじょうい

 人形の絶叫が止まり、恐ろしい形相の戦闘形態が解かれ、最初の平安貴族の娘然とした姿に戻る。鵺を苦しめた人面も元の位置に収まり、三叉戟とともに消えてしまった。

「戻れ、白藍」

 しばし無音となった広場に浮遊する光の球の間をゆっくりと移動していく。戦闘形態を解いても、鵺の爆発による損傷した場所は戻らない。白い肌は爛れたままだし、髪の一部は溶け落ちて地肌が見えている。微風に揺れる十二単にも穴が開いている。

 あれほど執拗に鵺の体から赤い粒を集めようとしていた白藍だが、浮遊する光の玉には興味を示さない。こうなってしまってはもはや収集をする意味がないのか、陰陽師も指示をしないでいる。

 すでに山場を超えた舞台の観察を続けながら、湖澄は陰陽師の態度を考えてみる。彼はきっと、鵺退治に来たのではない。鵺という人間界に影響を及ぼすまでに実態を持つようになった龍脈を回収しに来たのだ。
 白藍とかいうあの人形を通して行おうとしていたが、こうとなっては出来なくなったのだろう。

 浮遊し徐々に消えていく光の球にはもはや鵺だった時のおどろおどろしい魔や陰気を含んだ氣はない。漂っているのはただのエネルギーの塊だ。

 陰陽師の前まで戻った人形は、出現時と同じように黒い穴にゆっくりと沈んでいった。そして人形をの消えた組み木の板も、やはり同じ様に元の小さい板に戻った。
 
 道路に置かれた板を陰陽師が回収する頃には、消えていた虫の音も戻り始めていた。鵺や人形の放つ異様な気配が消えたせいで、ほっとしたのかもしれない。
 虫だけではない。動物やそれ以外の存在も安堵しているはずだ。

 それは森の中に潜む虫や生き物だけではない。
 陰陽師が板を回収してことにより、治神団の中にも今夜の山場が過ぎたという安堵した雰囲気が生まれていた。

 それでも状況は良いものではなかった。白藍の息にアテられた仲間は未だ倒れ、泡を拭きながら失神している者もいる。かと思えば正体の知れない力により傷を負い出血しているものもいるのだ。

 だが陰陽師には、怪我人もかつて鵺だった消えゆく光の球も見えていないようだ。

 ひと呼吸の後、「さて」と陰陽師は辺りを見回した。「終わりました。これにてお開きです。どうぞみなさん、お帰りください。今夜はお疲れ様でした」丁寧に頭を下げ、面を上げた時には晴れやかな笑みを浮かべていた。一方的な解散であったが、それ以上に有無を言わせない傲慢さがあった。

 自分の役割はここまでとばかりに、彼はくるりと体の向きを変えると、後方に置かれたテントに足早に歩いていく。そこは役所の担当者や今回の鵺退治にて中央と市との間に立つ神主が待機する、今回の現場事務所といった場所だ。もちろん陰陽師の連れてきた部下もいる。

 彼が近づくと部下のひとりが無言で傍らに停めたSUVのドアを開けた。当然のように乗り込むと、陰陽師を乗せた車はたった今彼が立っていた戦場を突っ切り、山を下っていった。

「本当に嫌な奴ね」

 鵺の最後に天部の氣を纏う人形に全てに無関心な陰陽師。今回の騒動は気に食わないことばかりだ。

 それでも良いことはある。元凶である鵺が消えたことで、この世を憂うようなもの寂しいあの鳴き声を聞くことも、毎朝発見されていた無惨な死体の発見報告を聞くこともしばらくの間はないだろう。
 少なくともこの周辺では。

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