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明治期日本のスポーツとエンターテインメント──「武道の誕生」とベースボール|中野慧

本日お届けするのは、ライター・編集者の中野慧さんによる連載『文化系のための野球入門』の‌‌第‌13回「明治期日本のスポーツとエンターテインメント──「武道の誕生」とベースボール」をお届けします。
明治初期の日本で「ベースボール」はどのように受け止められたのでしょうか? 「作られた伝統」としての武道と「新奇なサブカルチャー」に過ぎなかったベースボールという位置づけから、当時の日本文化の情勢について考察します。

中野慧 文化系のための野球入門
第13回 明治期日本のスポーツとエンターテインメント──「武道の誕生」とベースボール

明治期日本が目指したのは「欧米」ではなかった

 前回までは、19世紀後半のアメリカにおけるベースボールの定着を見てきたが、ではベースボールは日本にどのようにして入ってきたのだろうか。
 明治維新は1868年であるが、ベースボールが日本に伝わったのはそのわずか4年後、1872年に東京で始められたとされている。だがその話に入っていく前に、この時期の「日米関係」について整理しておかねばならない。
 そもそも近代以降の日本とアメリカの関係はやや複雑である。よく知られるように日本の開国の直接のきっかけは1853年のペリー来航であり、アメリカの強大な軍事力を背景にそれまで鎖国していた江戸幕府は開国を余儀なくされた。幕府の「弱腰」に対して、それまで冷遇されていた薩摩・長州という外様の藩の武士たちを中心に「攘夷(外国人を打ち払うこと)」を掲げた暴力の嵐が吹き荒れ、やがて倒幕運動へとつながっていった。
 ところが1860年代の幕末維新期にはなぜか、日本史においてアメリカの影は薄い。アメリカはペリー来航の50年代には太平洋・東アジア地域に活発に進出していたが、60年代は小康状態となっている。原因は前回述べたように、1861〜65年にかけて戦われた南北戦争とその後の戦後収拾に追われていたからだ。アメリカは内戦の影響で、英仏をはじめとした西欧列強の東アジア進出、より直接的にいえば中国進出に遅れをとってしまった。
 1867年11月の大政奉還後、1868年初めから始まった戊辰戦争は、幕府はフランスの、薩長同盟(新政府)側はイギリスの支援を受けて戦われた。この戦争はいわばフランス・イギリスの代理戦争の様相を呈していたのだが、アメリカはあくまでも「局外中立」の立場であった。
 そのため、戊辰戦争が新政府軍の勝利に終わったあともアメリカは、日本国内に強い影響力を行使することはなかった。
 戊辰戦争後、明治新政府はスローガンとして「富国強兵」を掲げたが、国家の重要課題である軍事に関して、陸軍はフランス(のちにドイツ)、海軍はイギリスを模範とした。また、近代国家に不可欠な法律の整備においては特にドイツを参照した。明治維新の3年後の1871年に普仏戦争でフランスを破ったプロイセンにより、それまで統一されていなかった「ドイツ」が国家として成立したが、明治新政府は日本と同じく君主を戴く権威主義国家としてドイツを模範としたのであった。
 明治政府のリーダーたちから見たとき、日本と同じ君主制国家としてドイツやイギリスは模範だと認識していた一方で、アメリカは模範とすべき国ではなかったのだ。「文明開化」「脱亜入欧」とはいっても、日本が国家として目指すべき理想像のなかにアメリカが入っているわけではなかった。そもそもイギリスやフランス、ドイツ(プロイセン)は国家としても歴史が古く、王政・帝政の伝統を持っていた(フランスは1789年のフランス革命以降は共和制の時代もあったが、明治維新の時期はナポレオン三世の第二帝政とその崩壊の時期である)。
 一方、アメリカのことは「日本に比べれば歴史の浅い国である」と軽視する向きも強かった。つまり明治期に近代国家への道を歩み始めた日本は、西洋の文物を取り入れる際に、オフィシャルな場所では「欧米」ではなく、あくまで「西欧」を参照していたのだ。これは実は、日本における野球の定着を見る上で極めて重要なポイントである。

イギリスからやってきたスポーツ、アメリカからやってきたベースボール

 明治国家は、政府・民間レベルでさまざまな国から外国人を教師として招いた。なかでもイギリスからやってきたフレデリック・ウィリアム・ストレンジは、現在の東京大学の前身のひとつである「予備門」で、学生たちにホッケー、サッカー、クリケット、テニスや陸上競技、ボートなど、当時イギリスで学生たちの間で盛んに行われていたスポーツを伝えた。ストレンジは「部活動」や「運動会」など、日本における集団でおこなわれるスポーツ活動の土台となるコミュニティのあり方、催事の雛形をつくった人物である。
 もともとストレンジの母国イギリスでは、貴族や有力者の息子たちが集まるパブリックスクール(寄宿舎制の学校)で、スポーツが「道徳心を備え、リーダーシップとフォロワーシップ、公平性(フェアプレイ精神)のある立派な青年を育てる」として教育プログラムに組み込まれていた。この背景には、キリスト教のプロテスタンティズムの考え方のひとつ、「スポーツで道徳的健全性が養われる」とする筋肉的キリスト教(Muscular Chiristianity)という思潮があった。逆に、スポーツに積極的に親しもうとしないパブリックスクールの生徒は、「勉強虫(aesthete)」「女々しい(effeminate)」としていじめられるありさまで、時には自殺にまで追いやられることもあったという[1]。日本における近代スポーツの父とされるストレンジの背景に、そういった英国パブリックスクールの文化があったことには注意が必要である。
 さて、ベースボールを日本に最初に伝えたとされるのは、同じ時期にアメリカからやってきたホーレス・ウィルソンという人物である。ウィルソンはもともと南北戦争にも参加した軍人で、来日してからは英語や数学を教えるかたわら、1872年から東京大学の前身のひとつである第一番中学でベースボールを学生たちに教え始めた。第一番中学は翌年から「開成学校」となってグラウンドも作られ、そこでベースボールの試合も定期的に開催されるようになった。これにはイギリス人であるストレンジも興味を示して参加し、開成学校がさらに改組された「第一高等中学校」ではベースボールをプレイする学生有志団体が立ち上がった。
 ニューヨークでニッカボッカーズがベースボールを始めたきっかけが「デスクワークで運動不足になりがちなホワイトカラーを戸外に連れ出す」ということであったのと同じように、ウィルソンがベースボールを日本の学生たちに教えようと考えたのは「学生たちが勉強ばかりで運動不足だから」であった。
 明治期には外国からさまざまなスポーツが入ってきており、ベースボールとほぼ同じ時期にサッカーやラグビーなどのフットボールも入ってきている。外国からさまざまな文物が流入するなかで、西欧ではない「アメリカ」のものである野球は、あくまでも学生たちのあいだではサブカルチャーであった。
 だがベースボールは、1870年代から1890年代にかけてしだいに日本に普及していった。その際には「野球」という名称はまだなく、「打球鬼ごっこ」と呼称されて、子どもたちのあいだにも広まった。なお「野球」という名称が誕生するのは明治維新のずっと後、1894年のことである。
 余談だが、この草創期の野球には木戸孝正、牧野伸顕という二人の人物が参加していた。明治維新では西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通が「維新三傑」とされているが、木戸孝允の養子が木戸孝正で、大久保利通の次男が牧野伸顕である。この二人が、アメリカ留学の手土産としてバットやボールを持ち込んだという話が残っているのだ[2]。木戸孝正の長男・木戸幸一、そして牧野伸顕は、のちに昭和天皇の側近となった。二人は昭和戦前期には「君側の奸(天皇のそばにいながら自分たちの利益のために間違った情報を天皇に吹き込む輩)」として陸軍青年将校たちから敵視され、命までをも狙われながら、太平洋戦争末期には終戦工作に貢献している。これも「野球」と「軍部」の関係として面白いひとつのエピソードかもしれない。

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