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#013 現在の姿を認めてもらうことの必要性について

黒子首の最新MV "静かな唄"を視聴して感じたことなどを...

まずはこのビデオのロケーションや冒頭に写っている小説について。

小説は、田中小実昌という方の"悩ましい死体"というもの。蛇足だが、最近山崎ナオコーラ氏の"美しい距離"という本を読んだ。「〇〇しい〇〇」という表現ひとつとっても組み合わせは無限である。

尚、この"静かな唄"という楽曲についてボーカルの堀胃氏は、「今は亡き人に当てて、生きている自分が歌った唄」とTwitterにて話していた。考察!と謳うには直接的過ぎるが、楽曲のテーマと"悩ましい死体"は無関係では無いのだろうと邪推してしまう。(MVに小道具?として登場した時点で無関係とは言い難い気もするが、そういう表面的な意味ではない、関係のはなし)

撮影のロケーションはOPEN BOOKS という新宿ゴールデン街にある立ち飲み屋さんとのこと。(MVのクレジットに載っています)。調べてみると、当店のオーナーの祖父が先述した"悩ましい死体"の著者である田中小実昌氏であるとのこと。うーん。興味深い。故に、ロケ地ありきの小道具としての小説とも捉えられるが、こればかりは読んでみないと分からない。そもそも、如何にも信念あるミュージシャンが自身の作品中に、別の作品をねじ込む事に無関心であることは無いのではないかと、個人的には思う...。あくまで個人的に、だが、これは作中作的な演出という線は捨てきれない。

楽曲について、そのほか映像中の演出について、書きたいことがない訳ではないが、基本的にはこの場所と本について書きたかった。一旦満足。

最後に、これは完全に作品を離れた私の独り言になる。本記事のタイトル「現在の姿を認めてもらうことの必要性」について書いてみる。

人は、と書くと主語が大きいので書き換える。私は、誰かに現在の姿を認めてもらう事がその人をより高いところへ連れていくのでは無いかと仮説する。現在わたしは、迷ってばかりだ。とっくに書き終えたはずの歌詞を消しては書き直し、同じ詩が同じノートの中に無数に散らばっている。しまいには、詩の鍵になる言葉そのものに疑問を覚え、何も書けなくなる。進むことも戻ることもできなくなる。自身の書いた詩に対して、共感性は足りているか?物語に矛盾は生じてはいないか?そもそも何を伝えたいのか明確か?等と、誰のためになるのか意味不明なチェックシートが表れては消えていく。

考え抜かれた作品は素晴らしいが、"無駄がなくて美しい"のと"詰め込み過ぎて胃もたれ"は全く別物になる。自分の書いた物がすべて後者に思える。そうでなければ、無駄なことばかり書いているような気持ちになる。

ただ、この手の悩みはものを創作する上では当然の悩みであるように思う。むしろ、そういうのが無い人がいたら怖い。多分、たくさん居て、そういう人とは生活している層が違うから、その存在を知ることすらないのだろうとこれまた随分をダウナーな思考である。

でだ、私は私に自信がないから、現在の私を形成する過去を責めるのである。至って無意味だが、本人は大真面目だから救えない。もし、貴方が好きだよって誰かが言ってたら、そんなことは考えない。それが、「現在の姿を認めてもらうことの必要性」である。

そんな支えが無くても作品を産み出してきた屈強な人、死に物狂いでそれを超えてきた人もたくさんいると思う。その方が生き様として美しいのは頭ではわかるが、力が湧いてこないのだ。それが、すごく虚しい。

もしかしたらこの"静かな唄"を書いた堀胃氏は、そんなエールが無くても歌を創って、昇華し続けられる人かもしれない。ただ、そうでなかったとしても、そんな奇跡を起こせるのが、バンドという他人の集合体、バンドを取り巻くチームの力なのだと思う。そんな美しいものに出逢えたことに感謝しつつ、自身にもなにかその要素が、善く作用することを願ってしまう。浅ましいが、素晴らしい作品やチームに出逢えた自分にも、少し期待をしてしまうのだ。

随筆なのか書評なのかよく分からなくなってしまったが、このMVを見てそんなことを思った。終わります。

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