夏の終わり

 初めまして。大学を卒業して3ヶ月が経とうとしています。初投稿とゆうことで大学4年時に映像デザイン論とゆう授業の課題で書いた自身の処女作ともいえるコラムを勝手ながらお届けさせて頂きます。


 私は幼い頃から大学4年生になった現在に至るまでの22年という歳月の中でたくさんの光景を目の当たりにしてきました。そのなかで私が今尚印象に残っている光景について綴らせていただきます。


小学3年生のある夏の日のことでした。

当時は昼休みになると必ず校庭でからだを動かし遊んでいました。昼休み終了のチャイムが鳴ると同時にいつも通り教室へ戻ろうとする私の目に飛び込んできたのはセミの死骸でした。

その日まで何とも思わなかったいつも通りの光景にその日は心を奪われました。当時の私はセミの命が7日間ということを覚えたばかりでした。死んでいるセミを見た時にこのセミも7日間だけという短い日を生きていたのかとふと思い、悲壮感が込み上げました。


教室に戻り授業用の大学ノートを開くと最後のページでした。授業中、板書の途中でページの最後の行を書き終えてしまい、いわゆる「ノートをとる」行為ができなくなってしまった私は鉛筆を机に置き、最後のページまで書き終えたノートを見ました。その瞬間、ふと校庭のセミの死骸が頭に浮かびました。

命の尽きたセミの死骸と最後のページを書き終えたノートが私の脳内で重なりました。今思えば偶然に過ぎないのかもしれませんが、白紙に薄緑色の罫線が引かれ、鉛筆の淡い黒鉛で書き記されたノートと、透明な羽に緑色の線が混じり校庭の砂ボコリを被り少しグレーに近い黒い頭のクマゼミの死骸から私は同じ悲壮感を感じました。

ノートは書いていけばいずれ最後のページに辿り着きます。ですが使い手自身が毎日何ページ書くかによってノートの生命は決めることができます。ですがセミは7日間という生命の期限が決められています。

私はどんな生命にも終わりが訪れるということを使い終わりの大学ノートと7日後のセミから学びました。


同じ夏を生きていた私とセミと大学ノート。残された私はいつ死ぬのかわかりません。生きていることの意味、生命の尊さを噛み締め、夏の終わりの通学路で小石を蹴とばしながら秋へと進むのでした。

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