『普通』という憧れの話。

不登校児であったり発達障害児であったりを育てているとでてくること
「普通ってなんだ」なんだけれど

普通って概念を持つということは実際は「とてもうらやましく」て「憧れている」からこそここにひっかかるのではないか?と思ったということなのです。

今日。息子氏(自閉症スペクトラム障害・知的障害なし)が今日14歳の誕生日でしたおめでとう。

ところで
わたしはたぶん普通の子供を育てたことがなく…。

長女は、小児医療センターの内分泌系の診療科にずっと通っていて
次女は、アレルギー体質でいつも呼吸器疾患を抱えているようなこどもだった。

それだけでも結構なめんどくささを感じていいと思う。

その上で

息子氏。
風邪はひかない丈夫なこどもで乳幼児期、上の二人の娘よりは本当に
育てやすかった。夜泣きもせず。人見知りもせず。
先天眼瞼下垂で受診するくらいでとくに育てていて困ったことって特になかった。

そして長じて娘たちも成長に伴い問題がなくなっていき
普通に暮らしている。

普通ってなんだ?

今日。息子氏とあれこれ外出して。帰宅時に小学生の下校時間と重なった。

あぁ小学生時代は息子氏自分で、下校できてたんだよって思う。

今?

今は無理。
なぜなら小学校ではなくて遠くに通ってるから。
たぶん駅からなら自分で帰宅できるんだろうけれど
通所先から駅までに一人で帰宅は難しいと思う。

なので送迎両方やることになって…。

小学生時代よりも私はやることが増えている。

そして「何も考えていない」こどものころからはかんがえられないほどに
いくらでも神経質になれて

ケアしなくてはいけない部分が

乳幼児期よりもどんどん増えて行ってるのである。

それをわたしは認識するのが嫌だった。


怖くない怖さを感じないレベルの
正直軽度であっても知的障害があったとしても
「自分一人で」行動することはできるだろうと思う。

なぜなら「こわさ」を知らないからだ。

ある程度知的に問題がなく暮らしていると

ふっと。いろいろ不安になるのかもしれない。

最近。心因性の頻尿のような症状が出始めた。
ある種のパニック障害に近いのだろうと思う。
こうなるともっと「一人で行動させることは無理だな」と
私は判断する。

でもさぁ

わたし。もう体力がないのよ…。
いつまでも一緒に連れて歩いてケアできるかどうか…。


今日の悲しみはそこにあった。

息子氏は成長してゆき元気に育つ。
でもわたしはどんどん衰えていく。


あぁ、普通の子供であればどれだけ楽ができたんだろう?と考える。

この考えを持てるの本当はよくないのかもしれないのだけれど

わたしだって実は普通だったんだよって思う。
普通だからもう体力がないんです。

どれだけ普通で暮らしていてくれたら楽だっただろうと
今日のわたしは気弱だったので本気で思っている


普通でいられることって本当にすごいことなのだよ。

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