悩みごとが無いではない。しかし今川はもともと楽天的な質だった。朝、会社の倉庫でコピー用紙や文房具、教材を商用のワゴン車に詰め込む。市内の小中学校や、ときおり銀行、市役所、県庁に納品し、受注を受ける。狭い範囲をあちらこちらと移動する間が、悩みごとを考えるための細切れの時間だったが、夕方に帰社し事務処理を終え、家に帰って眠るころには充分に身体はくたびれて、眠りについてしまう。かれこれこの生活も十年を越えた。悩みごとの内容は歳とともに変化したが、充分考える前に現実は進み、いつの間にか解決している。会社に入った当初は仕事に悩んだが、幸い、現在は部長となっている井田のおかげで徐々に仕事も身についた。独り暮らしの淋しさに悩む時もあったが、井田や、同じく先輩の島課長の紹介で妻と出会えた。結婚後しばらく、子どもが出来ず悩んだ。しかし妻は七年前に妊娠し、娘が産まれた。専門学校を出て、実家暮らしのままパチスロで生計を立てていた頃は、親との関係に悩んだが、今、家の近くに住む両親には娘の世話をしばしば頼む。両親もそれを楽しみにして、いつの間にか今川との軋轢も無くなった。結局、収まるべきところへ収まるのだ。今川はゆっくりと人生を好転させていたし、そうする為に、悩みごとの種が大きく開かないよう、よく働いた。
その日は厳しい寒さだった。小中学校の卒業式に向けて、大量の卒業証書ケースを詰め込み、市内を回る。井田部長は銀行関係の担当、島課長は県庁・市役所担当となっている。学校担当のなかで、いつの間にか今川が一番の古株となった。後輩社員に較べても納品量が多い。課長補佐。二十名弱のちいさな会社とはいえ、名刺に役職が刷られるのは面映くも嬉しい。卒業式から入学式の繁忙期を終える春には、今川は課長となる予定だった。この数年、横ばいに近い給料も少しは上がるだろうし、妻も喜ぶはずだ。納品物の重みに傾くオンボロの商用ワゴンを発車する。来年に向けて、悩みごとの種を把握しようと、運転中、ラジオを切った。集中するため雑音を無くす。ひとりになれる時間。
会社を出るとすぐに、最近出来た豪邸を横切る。ネット通販会社を営む青年実業家の建てた豪邸。そこから、今川の担当区域の栄川区にはいる。今川は栄川区で育った。その外れ、みのり区に隣接する新興住宅地に五年前家を買った。建坪は狭いがウッドデッキと芝生の庭があり、夏の週末は家族でバーベキューを楽しむ。かつての井田や島の家に憧れて、狭いながらも庭には拘った。井田と島は歳も近く仲が良い。若い頃は、今川を度々家に招いてはバーベキューをした。ある日、島の家。バーベキューに島が招いた女性。今川は一目惚れした。彼女が今川の妻となった。家を建てる際、今川は庭に関して譲らなかった。二人が出会ったあんな庭で、家族でバーベキューをしたいんだ。妻は笑ってそれを認めた。
その家に色々と不備が出てきた。元は沼沢地を拓いた住宅街なので湿気がひどく、ウッドデッキの朽ちが早い。今川は悩んだ。
午前中、今川は黙々と納品をこなした。一校につき数十から百を越える数の卒業証書ケースを台車に乗せ、学校の事務教諭に挨拶する。場合によっては3階や4階に設けられた倉庫に、階段を昇り降りして納入する。二月というのに汗が噴き出し、ワイシャツの上に羽織ったアノラックを脱ぎ捨てて、運ぶ。
給食の時間。納品はできない。今川はコンビニの駐車場に車を停め、汗を引かせながら弁当を掻き込む。ほんの少し眠る。最近いよいよ、腰痛を無視できない。今川は悩んだ。
給食の時間が終わる頃、携帯のアラームで目覚める。再び栄川区の納品を済ませて、自宅近くを通過し、みのり区に入る。みのり区の西側一帯も担当区域である。それには理由がある。みのり区西部にある霞ケ丘中学校は、今川にしか担当できないからだった。

基本的に、学校担当はひとつの区を受け持つ。今川が入社した当初はそうだった。しかし今、会社は慢性的に人手不足だった。若い社員が短い期間で辞めていく。あと一、二人いれば充分なのだが定着しない。結果古株の今川が広めの範囲をカバーする。なかでも霞ケ丘中学の事務教諭、千村は、今川にしか心を開かず、競合他社すら出禁にしていた。霞ケ丘中学は今川にしか担当できない。それゆえ、ついでにみのり区の西部も今川の担当区域となった。後輩を指揮する立場として、従業員の定着率に、悩む。

千村に初めて会ったのは、今川が入社して五年を過ぎた頃だった。臨海区の担当だった井田が学校担当を外れ、銀行担当となる。その引き継ぎとして、挨拶廻りに同行した時だ。それまで今川は都葉区を担当していたが、配置換えで臨海区担当となった。臨海区は埋立地に新興住宅地や企業を誘致し、市内で唯一児童の人口が増えつつあった。井田は「ドル箱になる区をおまえにやるよ」とニヤリと笑った。今川は嬉かった。

今に較べれば事務教諭は女性が多いなか、千村は珍しい男性事務教諭だった。歳は井田よりも少し上。千村と井田は既に昵懇の仲で、井田ちゃん担当変わっちゃうの?寂しいなあ、と言いながら冷たい眼差しでジロジロと今川を査定した。
挨拶を終えて社用車に戻ると、井田は言った。
「あいつはネジくれた糞野郎だけど、あいつと上手くやれればどの学校でも上手くやれるよ。修行だと思うしかないな」

実際、千村は糞野郎だった。学校予算の管理者という立場を利用し、出入りの業者に辛く当たった。些細なことでクレームを入れ、気に食わない業者を出入り禁止にするばかりか、他校の事務教諭にも業者の不備を吹聴し、不買運動の真似事さえした。臨海区の人口増加が拍車をかけた。千村のいる学校は予算が格段に増え、それを取り仕切る者として余計に増長した。今川は千村の相手に疲れた。加えて、待ち望んだ妻の妊娠がプレッシャーとなり、今川は円形脱毛となった。今川は悩んでいた。

ある日、今川の脱毛がいよいよ激しくなった頃、急に千村は優しくなった。理由は明白だった。千村はハゲていた。千村はその一点で、髪の薄くなった今川にシンパシーを覚え、あろうことか酒に誘った。今川はこれを利用し、千村と信頼を築いた。抜け落ちる髪を自嘲的に笑い、弱さをさらけ出し、千村を立てて阿った。千村は事務教諭としての苛立ちを吐露した。月に一度は酒を飲む関係となった。やがて千村は殆どの業者を出禁にし、ふんだんな学校予算の発注を、ほぼ今川に任せるようになった。
時が経ち、千村は学校を移動した。今川は、島が担当していた栄川区を引き継ぎ、幼い娘との生活のなか、外で酒を飲むことも無くなっていった。そして今年度、みのり区の霞ケ丘中学校で、千村と今川は再会し、かつての関係性に立ち戻った。

高級住宅群の99ヒルズを眺めてから、ほど近くにある霞ケ丘中学に向かう。授業が終わり部活動が始まる三時頃、事務室にも緩い空気が流れ、簡単なおやつなどを食べる。その弛緩した、和やかな時間を狙って今川は霞ケ丘中学を訪れた。99ヒルズはひどく寂れてスラム化し、先日老人とその孫娘が殺されてニュースになっていたが、霞ケ丘は相変わらず平和だった。大量の卒業証書ケースを倉庫に収め、事務室へ行く。千村は今川に言う。
「暗い顔してるけど、また悩みごとでもあるの?」
それは、今晩あたり飲みに行かないかと言う千村の誘い文句だった。今川は、よかったら聞いてくださいよと言い、帰社後、駅前の飲み屋で落ち合う約束をする。しょうがねえなあ、サービスだと言って、千村は今川に大量の発注をする。チョーク。コピー用紙。ペン類。事務机用シート。マジックインキ。マッキー。模造紙。プリンターインク。ファックス用トナー。黒板消し。ミニサッカー用ゴール。額縁。藁半紙。ヤマト糊。スチール棚etcetc。
今川は、間違えの無いよう手帳に書き留める。金や自尊心や生活が絡んだ共依存。けれど、売上が計上されるこの瞬間、今川は悩まなかった。

帰社後の事務作業を終え、柴駅で千村と落ち合う。千村は自慢の灰色いワゴン車を一旦家に置き、電車でやってきた。今川も会社の駐車場に車を置き、電車で向かう。週末。終電ギリギリまで飲むのが習わしだった。千村は酒が弱い。一杯目でエンジンがかかり、他校の気に食わない事務教諭の悪口を言う。千村は栄川区にある八尋中学校の事務教諭、浅野を嫌っていた。同期で、当時は少なかった男性事務教諭の浅野を事あるごとに口汚く罵る。今川はそれを聞き続けることで、千村の発注を勝ち取った。
「栄川区だから、八尋中も担当だろ?どうなの浅野は?」
「千村先生の敵の中学には行きませんよ。会社に許可とって、あそこだけ担当から外してもらってます」
今年度、この説明を千村に何度もした。その度千村は満足気に笑い、赤くなったハゲ頭を撫ぜる。実際、八尋中の担当は外してもらっているが、理由は別にあった。既に酔って上機嫌の千村は、じゃあ今川の悩みも聴いてやろう、とニヤつく。
悩み。悩み。
今川は悩んでいた。それは娘のことだった。娘はこの春から小学生になるのだが、娘がこの街で、楽しく生活できるか悩んでいた。この街の学校で。今川はこの街の学校を好まなかった。自分の育ったこの街の、教育機関。仕事でも携わっている。言葉を選びながら、オブラートに包んで、娘の学校生活が心配だと千村に言う。

「確かにこの街はクソかもしれない。俺だってこの街でずっと過ごしてきて馬鹿ばかりで大嫌いだけど、なにがどうなるか未来なんてわからないだろ?おまえだってこの街で大人なって結婚して子どもも生まれてなにを怖がっている?たしかにこの街の過去はクソなこともあったけれど、忘れちまえ。いつまで拘っているんだ?おれは誰もやりたがらなかった事務教諭をやってきた。けれどいま安定している。あの頃できた99ヒルズは華々しかったけれどいまや殺人現場だし、みのり区も昔からいた東側の連中が落ちぶれて東側の中学のガキは荒れ果てているよ。そもそもは霞ケ丘を馬鹿にしてた奴らの末裔が。おれのいた臨海区だって新しく流入してきた住民や企業が富を齎した。おまえが新しくあれよ。おまえの家は新興住宅地だけど、まわりは貧乏人ばかりで、あのあたりの中学は給食費の未納がすごいんだ。現実的に、娘が中学にあがるときに悩んでやれよ。小学校区は問題無いよ。霞ケ丘みたいに、他所から来た連中が多いから大丈夫だ。中学にあがって学区が拡がったとき、貧しいやつとの対立が生まれるし、悪く染まるかもしれない。でもまだ大丈夫だ。安心して小学校に入れてやれよ。だいたいおまえは楽天家だろ?おれは過去を忘れるよ。事務教員になったときまわりの連中は笑った。景気のいい時に公務員の、しかも女ばかりの職場にって笑ったあいつらは、リストラや倒産でいまや連絡もつかないよ。時代は変わる。あんまり硬くなるなよ。おれはハゲてるけど若さを忘れないよ。それも拘りになってしまうのかな?わからないけど、おまえは楽天家だろ?悩むな」
へべれけになって千村は帰った。

今川が八尋中の担当を外れたのは、千村との義理を通して事務の浅野教諭に会わないようにしているからではない。
今年度から、八尋中の校長は葛代になった。葛代校長はかつて今川の中学時代の体育教師だった。その頃の暗い記憶が、この街で娘を進学させる妨げになっていた。ひどい記憶。葛代校長の顔も見たくなかったので、担当を外れた。しかし、千村に言われて過去に拘るのは止めようと思った。はじめて仕事を離れ、千村と楽しい酒を飲めた気がした。もともと今川は楽天家な質だった。家に帰って眠るころには充分に身体はくたびれて、眠りについてしまう。
それに、千村から、また発注が増えるだろう。
もうすぐ新年度が始まる。

梅雨も明けた初夏の夕暮れ。都葉区の市営霊園近く、林のなかに、灰色のワゴン車が停車していた。そこに猛スピードの黒いワゴン車がぶつかり、当て逃げて何処かへ行ってしまった。あまりの音に驚いた近隣住民が、ボディのヘコんだ灰色のワゴン車に近づいた。なかには素裸の男が衝突のショックで気絶しており、その傍らに素裸の少女が怯えていた。警察が集まる頃に目を覚ました千村は僅かに残る頭髪を掻きむしった。

異様な現場に立ち会った警官は空を仰いだ。近くの市営霊園で、なにかが燃える火と立ち昇る煙を見つけたが、世間知らずの警官は、霊園で火葬が行われているのだろうと思った。制帽が蒸れて、夏の到来を感じた。

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