遠くから、呼びかけられた。
「館長」
前年度までは「勝村さん」と呼ばれた。数年前は「校長」その前は「教頭」まだ若い頃は「先生」と呼ばれた。
入口の鉄扉に手をかけ柴が立っている。黴臭い倉庫。市史の資料。キャビネット。蛍光灯。柴が着る白いカッターシャツ。
「館長、また連中が来ていますがどうしますか?」
勝村は資料を書架に戻し、ゆっくりと柴に近づきながら、答えた。
「もうすこし様子を見ようよ」
諭すように柴を見つめる。館長らしい振る舞いというより、長く染みついた教育者らしい振る舞い。連中。招かざる来客。揃いの黒いTシャツ。焼けた肌と筋肉を誇りながら、大股で歩く連中。柴は慇懃に話を続けた。
「けれど気になることがあります。連中の匂いについて思い当たる節があって……」
「匂い……」
勝村はつい、自慢の高い鼻を撫ぜた。資料から指に移った埃。ざらついた鼻が、連中の発散する匂いを思い出す。すえたような甘い匂い。奇妙な懐かしさ。歳をとり体温調整がきかない。詰まり気味の副交感神経。腋が突然、しっとりと湿り出す。不快感。勝村は柴に激しい苛立ちを覚えた。汗の気化する嫌な冷たさ。勝村は震える。

街を見下ろす丘に、鴫嘴城はある。鉄筋コンクリート造の公共観光施設。内部は郷土史博物館であり、天守閣はプラネタリウムとなった。春になると城郭の周りには桜が咲く。石垣に配備されたライトは夜、漆喰の真新しい白壁を照らす。大袈裟なライトアップ。城郭と桜が闇に浮かぶ。釣り渡された提灯や、いくつかの出店屋台。桜を眺めようと人々がやってきては、酒を飲み帰ってゆく。

桜も散り、教育委員会への出向を終えた勝村はこの春、城の館長に収まった。公立中学校の教員を経て教育委員会へと、長年務めあげた論功行賞。新たな役職。
館長職は、前任を踏襲するに留まる保守的なものだった。

柴は優秀な若者だった。契約社員とはいえ、広報や企画立案にも率先して参加する。勤勉。愛嬌。勝村は柴を通じてこの城の運営状況を学んだ。結果、ひと月後にはすっかり仕事に慣れた。

ゴールデンウィーク目前、快晴が続く。市内の小学生たちが城を訪れる。生徒たちはひと通り博物館を見学し、画板に画用紙を挟み、城の絵を描く。
図画教育として長年行われてきた学校行事。市の教育委員会に認められた絵は、海沿いの美術館に展示される。

室町から戦国時代にかけて、この地には土塁と板壁で築かれたちいさな平城があったが、江戸時代には廃墟として捨て置かれていた。一帯は妙見宮の門前から拡がる、静かで目立たない農漁村だった。しかし廃藩後に突如、県庁が置かれた。やがて軍需工場と陸軍連隊の拠点が敷かれ、この街は軍都と呼ばれた。大戦中には空襲を受け、ふたたび静かな焼け野原となった。そして復興。高度経済成長。いざなぎ景気に浮かれた気運のなか、かつての城址に鴫嘴城は再建された。往時の平城は再現されず、派手な長押型の城郭が築かれる。石垣と、この街一帯を拓いた武将の銅像も新造された。銅像は馬上、天守閣に向かって弓を引く姿で固まっている。

この街で生まれ育ち、社会科教員でもあった勝村は市史にも明るい。現在の城郭は妄想による虚像で、生徒たちが描く風景は、歴史に依らない幻だと知っている。
それでも勝村に、教育者としての熱意が蘇る。展示案内に顔を出し、子供たちと束の間の交流。パレットのうえで混ざり合う絵具を覗き込み、生徒たちに微笑みかける。
勝村の鷹揚な人柄を職員は慕った。冗談めかして、彼を「殿」と呼びさえした。

梅雨に入っての閑散期。城から街を見渡すと、雨に霞んで市街地の商業ビルが見える。そこから城に近づくにつれ、住宅群の広がり。家々の屋根は濃く濡れている。自宅にいる美千子を勝村は想像する。下校する子どもたち。原色の傘の群れ。紫陽花。美千子はまたパンフレットを広げているのだろうか。リビングのテーブル上、行ったことのない国々の写真が溢れる。
休憩室の窓から街を眺める勝村に、鈴木が話しかけた。
「殿、今日も城下は平穏ですか?」
鈴木は戯けた声音を作りながら、咥えた煙草に火をつける。
「至極、平穏である」
勝村も戯けて答える。煙草の替わりに飴玉を口に放って、舐める。

連中について初めて職員会議に挙げたのは、柴だった。
「場違いな来客がいます。街の人々は連中に怯えて、この城から足が遠のいているのではないでしょうか?」
問題を顕在化させなかった羞らいに、みな顔を伏せた。
「黒いTシャツの連中ですよ」
柴がより明確な表現をしたため、渋面をあげざるを得ない。
「考え過ぎだよ。昔からあの手の連中はいたさ」
古株の鈴木が眉をしかめて応じる。
「怯えるったって、柴ちゃんは怖いの?あんなガキどもを?」
節くれだった手首を回し、鈴木は二の腕の血管を浮き立たせる。奇形の瘤。割れた爪。日に焼けた額。
「連中も入館料は払っているしな」
資料編纂役の高橋が、壁に貼られた街の古地図に向かいつぶやき、眼鏡を外して目頭を強く揉む。レンズの黄ばんだローデンストックを、会議テーブルに置く。
「プラネタリウムのなかでは騒いでいませんしね」
広報担当の井上はそっけなく答え、手許のノートを閉じ、イベント撮影用のカメラや、館員証を弄ぶ。

薄暗い会議室。ホワイトボードに貼られた掲示用ポスターが空調ではためく。休館日の前夜。会議後には、駅前の居酒屋に繰り出し飲み会が開かれる予定だ。空気が淀む。みなの視線がゆるやかに勝村に集中していくなか、静寂が破られた。

「わたしは……わたしも、ちゃんとしたほうがいいと思います」
受付嬢の千江が柴を見つめ、堰を切るように話し出す。
「あの人たち、最近ひどいですよ。そこかしこで煙草を吸うし、たまに受付のあたりでも他のお客さんに絡んだりして……」
そう言って千江もゆっくり、勝村に視線を移す。
勝村は、校長時代の職員会議を思い出した。自分はリーダーシップを発揮する立場だ。みなが自分の返答を待っている。

「連中がいつから現れたのか、私には計りかねるな。私はこの城の一年生だからね。とりあえず、前年同月比で来客数を見てみよう。あまり悪い方へ変化があるなら、考えなければいけないね」
柴が来客数の推移データをプリントアウトする。ひどい数値だった。この街の人口減少によるものか、長梅雨のせいか、黒いTシャツ連中のせいなのか判断しかねるが、来客数は激減していた。なまじデータに頼ったことで、館員の思惑は固まってしまった。問題を提起した柴に対して、静かな同意をみなが示しはじめる。千江が、若さに任せて熱情を吐露する。わたしは……わたしもここが好きだから……。柴は口を固く結び頷く。ゆるやかな共感の輪。鈴木も態度を改め、のみならず「おれも前から気にはなっていた」と若い館員たちに阿りはじめる。高橋や井上も、やれやれと嘆息する。結果、連中の動向を把握し排除することが「正しい」態度であるという結論をもって、会議は終了した。その後の飲み会は、アルコールの力も相まって、決起集会の様相を呈した。

長く疎ましい梅雨にも終わりが兆す。けれど帰宅する夫の表情が冴えない。美千子は見逃さなかった。はじめ、夫が新しい役職を得たときにつね見せる諧謔かと思った。そういったときはさりげなく居間のソファーに腰掛け、夫の頭を太腿に乗せる。腿のうえに横たわる夫の、癖の強い毛髪や、高い鼻。尻やふくらはぎ。順を追って鼠蹊部を戯れに撫ぜるうちに、夫は恢復するものだった。夫は長い腕を伸ばして美千子の髪に触れ、背中を摩り、いたずらめいた顔をして服越しにブラジャーのホックを外す。そうして、若い日の夫は学年主任から教頭、校長となり、教育委員会での仕事をこなしてきた。その魔法はいまも有効だろうか。この街の、代々教員という家庭で育った美千子は、夫を父と重ねて慮った。美千子の父は、彼女が思春期を迎える頃、小学校の校長となった。教育者として厳格に生き、美千子を教職へと導いた。夫も教育者として、また父として苦悩してきた。けれど、いま夫は教員ではなく、息子は独立した。夫の灰色の顔色。それは城のせいだろうか。あらたなキャリアが教育機関ではなく、公共施設の館長であるせいだろうか。それとも老齢による体調不良だろうか。既に孫が何人かいてもおかしくない年齢だ。とはいえわたしたちはまだまだ若い、とも思う。館長職は、教育委員会の配慮による退職前の花道だった。ことさら力を入れて臨む仕事ではないだろう。早めに辞しても憚りはない。長年公務を務めあげた勝村には、すでに豊富な退職金が約束されている。美千子は人生の残り時間を数える。若い頃、市の教職員が集う研修会。夫と出会った日。高い鼻にまず見惚れた。ついで自分よりずっと大きな体躯。柔らかく品のある物腰。煙草の脂染みた、けれども整った歯並び。美千子は夫の顔や躰を好んだ。ふたりで住むには広い家。日中、夫の不在は寂しく、時折言いようのない不安を覚える。それは愛によるものだと、ふと感じる。ずっとこの街で暮らしてきた。まだ身体の自由が効くうちに、夫と海外旅行などを楽しんでもバチはあたるまい。美千子は買物のついでに、旅行パンフレットを集めるようになった。日中は、ひとりソファーに座りそれを眺める。夕飯を済ませ食器を洗い終えると、隠居生活の友人と電話をする。近況報告。家族旅行の土産話を聴くと、素直に羨ましく思った。

雑然とした納戸のような空間が勝村の書斎だった。積み上げられた歴史書に囲まれてウィスキーを舐める。窓外からは梅雨の終わりに相応しい静かな雨音。階下からは美千子が食器を洗う水音。故障した食洗機を美千子は買いなおさなかった。ここ数年は手ずから食器を洗っている。
いまや職員たちは、黒いTシャツ連中を追い出そうという観念に取り憑かれていた。正しい態度。連中は確かに、排除されるべきだった。素性は不明だ。揃いの黒いTシャツ。黒いジャージのセットアップに金色のラインがはしる。ワゴン車で乗りつけ、数名で城のまわりを徘徊する。周囲を静かに威圧し、煙草を吸い散らす。ベンチや石垣に腰掛け、ときに横臥する。プラネタリウムでは、弛緩しきった姿勢で脚を投げ出し星を観る。勝村は判断を鈍らせていた。最期の職場となるであろう鴫嘴城で、余計な問題ごとを引き起こしたくはなかった。
彼らのような生徒を、教員時代はたくさん目にした。放って置くとつけあがり、暴徒化する。彼らは校舎の窓ガラスを割り、シンナーを吸って、廊下をスクーターで走った。悪の芽は摘まねばと鉄拳を振るうこともあった。とはいえ教え子たちに、感謝こそされ憎まれたとは思わない。遠い昔。まだ「先生」と呼ばれていた頃。勝村は、未熟で若かった自分を愛した。充実した闘いの日々。しかしいまとは時代が違う。父だったら、どうするだろうか。父が他界して十年が経つ。勝村は父の没年を越えた。
空のウィスキーグラスを持ち、居間へ降りる。キッチンテーブルにグラスを置き、ソファーに座る妻の肩に手を置く。微笑。ふたりの時間。マガジンラックからはみ出た旅行パンフレットをリビングのテーブルに広げて、世界旅行の計画を起てる。ギリシャから西へ進み、カリフォルニアまで。チリから南下しアルゼンチンへ。空想の旅がひと段落すると、ふたりは共有する悩みを口にする。東京で暮らす息子について。息子の生活にとりとめのない心配を巡らしては、彼がこの盆に帰省するであろうかと気を揉む。お互いが、これまでの生活を労いあうような優しさを持ち寄って。

待望の息子だった。彼は金八と名付けられた。父親譲りの癖の強い髪。美千子に似て、鼻は低く小柄だった。彼は反抗期に荒れた。共働きのせいかと悩むこともあったが、結局美千子は定年まで教職を務めた。成人した金八は職を転じながら実家で暮らしていた。ふたりは彼にもこの街で教職に就くことを勧めたが、金八は二十七歳にして上京し、介護職に就いた。
今でも美千子は金八の夢を見る。
金八が結婚し、孫を連れて帰郷する夢を見る。
ふたりの生活の羅針盤。産まれたばかりの赤ん坊の姿が頭から離れない。ふたりは金八を遠くから見守った。金八の幸福を願っていた。

「夏の空で、もっとも明るく輝く星のひとつ、さそり座のアンタレスです」
半球形の天蓋に赤い点が光り、釣り針型の星座が現れる。プラネタリウムでは、夏から始まるプログラムの試写回が行われていた。アナウンス。矢印のような流星群。ちいさな星が無数に滲み、天の川が形づくられる。無料開放された試写プログラムを暗い座席で眺めながら、勝村は金八について考えていた。ギリシャ神話の蠍のイラスト。老齢の客が杖を握り締める。
勝村は金八が住むマンションを訪れたことがない。ある日、勝村と金八は関係を崩したからだった。

大学を出た金八は、実家に住まい不定形な日雇いアルバイトについていた。その不在時に、ふと勝村が彼の部屋を覗いた時だった。乱雑に漫画本やレコードが投げ置かれ、すえた匂いが漂う。まだ火種が燻る灰皿を勝村が見つけ、慌てた。家が燃える。黒く煤けた火事場跡が頭をよぎった。その瞬間、金八は突然帰宅し、自室にいる勝村と虚をついて相対した。勝村は灰皿を掴み、金八に詰め寄り頰を打った。かつて生徒に向けた激情が蘇る。頬を打たれた金八はドレッドヘアを振り乱し、勝村を滅茶苦茶に殴りつけた。
ここ数年、金八は盆ないし正月には帰省し、食卓を囲む。美千子は金八に、恋人は出来たかと遠回しに尋ねる。金八の返答はいつも曖昧で、そういった話題を苦い顔でいなすばかりだった。勝村は美千子を虚しくなだめ、強く意見することもなかった。あの日のことはタブーとなり、話題にはあがらない。暴力のトリガーを避けるような、静かな食卓。あの日のように金八に殴りつけられるのはまっぴらだった。あの日勝村は肋骨と歯を折り、すこし泣いてしまった。

この日、久しぶりに雨が止んだ。午前ミーティング。夏の展示企画の確認ののち、黒いTシャツ連中についての報告会が始まった。駐車場の障害者用レーンにワゴン車を停めた、花壇のなかに煙草を投げ捨てた、虚ろな眼で横たわりベンチを占領した、展示品を荒らしたetcetc。
勝村はそれどころではなかった。会議の前に金八から【盆に紹介したいひとを連れて帰省する】とメールが来ていたからだ。金八から勝村に直接メールが着たのは初めてだった。
勝村は適当に会議を閉じ、手の空いた者から昼食をとるよう促すと、なおも話したそうな人間を遮るように外出し、城近くの公園で美千子の作った弁当を広げた。金八からのメールを美千子に転送する。弁当の出来を褒める一文を添えて。
午後、城に戻ると勝村は館内の展示物を確認した。郷土史博物館の常設展コーナーでは、いつも通り縄文から弥生時代の土器や生活品、再現された貝塚や住居が展示されていた。夏から始まる企画展コーナーの展示物は搬入が終わり、客の目に触れぬよう間仕切の奥で配置されているところだった。今夏は甲冑や刀剣、武具、火縄銃などが展示される予定だ。その片隅に、高橋が憔悴した様子で立っていた。
「搬入の進行はどうですか?」
勝村の声にビクリと飛び上がり、高橋はズレた眼鏡をかけ直した。
「また貝塚コーナーがいたずらされたの?」
「いえ、問題ありません」
高橋はそう言うと足早に立ち去った。

長い梅雨が明けた。晴天の週末、客層は若返った。彼らはコスプレ用の甲冑や着物を車に積み、駐車場でメイクや着替を済ませて、城を背景にコスプレ写真を撮る。井上はそれをイベント化し、自らカメラマン役もこなしていた。鴫嘴城歴史コスプレ撮影会。街のマスコットキャラクター。犬の着ぐるみがよちよちと歩きまわる。中盤、ワゴン車が会場に乗りつけ、大門前の砂利を蹴散らした。車内から黒いTシャツの連中がイベントを眺める。司会を勤めるイベントコンパニオンの女性がワゴン車に駆け寄り、車を駐車場に停めるよう咎めた。次の瞬間、連中は彼女をワゴン車の中へ押し込み拉致すると、猛烈なスピードで走り去った。その夜、街はずれの市営霊園で、彼女の衣服はガソリンを掛け燃やされていた。消防車が駆けつける。炎の傍らで発見された彼女は、酩酊し糞にまみれた状態で、酷い火傷を負っていた。砕かれた墓石の欠片で顔を潰されており、長い手術の末に人工肛門をつけられた。被害届は出されなかった。

高橋が有給休暇を使い長い休みをとっている。勝村は彼に代わって資料室へ行く機会が増えた。書架やキャビネットに積まれた歴史資料は黴臭い。それが勝村を安心させた。まるで自宅の書斎に居るような気分になり、今夏の盆について算段する。金八の帰省。千江は辞職した。勝村は美千子の腿の感触を思い出そうとする。資料を探していた。井上と鈴木は最近仲が良い。結構なことだ。酒臭い息を吐き勝村を睨んでは、聞こえよがしに「バカ殿」と言う。脚立に乗り、また降りる。いくつもの書架。資料は見つからない。
「カンチョウ」という響きが勝村の作業を邪魔する。遠くから呼びかける声。カンチョウ…館長…。
振り返ると、入口の鉄扉に手をかけ柴が立っている。

————————————–

「館長」
鼻を撫ぜながら震えている勝村に、柴は再度声をかける。
「ああ、わかっているよ」
勝村は柴の声を遮った。鉄扉の影に、金八がいるような気がした。勝村は城を守る館長としてはじめて厳しい口調で言い放った。
「連中と話してくる。邪魔をするな」

連中の発散する匂いは、金八の部屋から洩れ出る匂いと同じだった。あの日燃え燻った灰皿から強く漂った匂い。貼られたポスターに、髭面の顔が描かれて。気づかないふりをした。乾いた草や、樹脂の燃える匂い。部屋に散乱する物陰に隠された、極彩色のパイプ類。本当はわかっていた。燃えた灰殻。何もかも燃える。勝村は企画展コーナーに向かい、ショーケースの鍵を開け日本刀を手にする。金八は八月の暑いあの日、勝村を殴って家を飛び出し、ネバダ州に渡った。国際空港。歯列。鼻腔。友人の手引。エレベーターに乗る。あの日から一週間後、父は没した。通夜に、帰国した金八があらわれる。丸刈りになった金八の頭。開いた瞳孔。喪主。黒い腕章をつける。金八とは一言も話さないまま葬儀を済ませた。父は燃える。喪主挨拶。美千子が遺影を抱く。無言で位牌を金八に押しつけて。ガソリン。燃えて膿んだ皮膚。激昂する両親に謝罪する。ベッドに横たわる彼女から、薄い糞の匂い。赤ん坊だった金八のおしめを初めて替えた日。斎場から焼場へ向かうマイクロバス。甥や姪の成長。空になった部屋。階下と、階上の二部屋が空く。ダンボール箱に詰められたレコードや漫画。パイプ類。残された勉強机とベッド。引越し業者のトラック。金八が乗り込む。最上階を目指し、エレベーターのボタンを連打する。焼夷弾。無差別に。軍都は狙われる。遺された父の箪笥。隠されていた日記帳。処分の目処をたてる。父は教頭まで務め上げた。美千子は金八の勉強机を摩り、ベッドに腰掛ける。二階の窓。夕陽が射し、美千子も朱色に燃えた。朱い墨汁。点けてきたマルやバツ。目を瞑り、踵を返して書斎へ。ウイスキー。折れた歯を舐め、舌を傷つける。肝臓癌。空いた部屋。美千子は立つ。手遅れ。エレベーターから飛び出し、リノリウム貼りの通路を走る。重い引き戸。骨。喉仏。太い箸で拾う。星座。夏のプログラム。掲示用ポスター。プラネタリウム。天守閣に、宇宙が拡がる。

暗闇に眼を慣らす。今日も客はすくない。黒いTシャツの男がふたり並んで座っている。ひとつうしろの列に潜み、背後から彼らを見下ろす。刈り上げた髪。発達した僧帽筋が背もたれから溢れる。日本刀を鞘から抜き、勝村は呼びかけた。
「すこし、君たちとお話したいんだけれど」
勝村は微笑する。

充血した赤い眼を向け、Aが訝しげに勝村を睨めつける。
「あ?」
Bが口を開く。
「おまえ勝村だべ?知ってんぞ」

今日、彼らは弛緩してはいなかった。頭は冴え、筋肉は漲っていた。素面で、重大な話をしている最中だった。若くもなく、老いてもおらず、無個性だった。

意識が戻ると勝村は倒れていた。臍のあたりに激しい痛み。ぬるぬると湿る。汗は止まり、寒い。スラックスの股上をべとりと濡らす液体の色は、暗闇のなかで不明だった。睾丸と陰茎が吹き飛ばされて、座席の下に散らばっている。桜色の肉片。柴が駆け寄り勝村を抱え上げた。耳には破裂音がはりついたまま、スクリーンが明るく光り、眩しくなってゆく。柴を勝村の体液が汚す。様々な色が混じり合って、柴の白いカッターシャツが染まる。芥子色。勝村は、柴が袈裟を着ていると勘違いした。倉庫のなか、日蓮の資料を探していた。睡魔に襲われる。

「英雄オリオンは、夏の空を制する蠍におびえて、冬の空にしかあらわれません。冬の大三角形のひとつ、オリオン座のべテルギウスは超新星爆発寸前です。膨らみ、萎み、星の寿命を終えようとして不安定です。爆発した光が地球に届くのには640年かかります。光が地球に届いたら、しばらく夜は明るくなります。ひょっとすると、ベテルギウスはすでに爆発しているのかもしれません」

耳鳴りがひとびとの話し声に聴こえる。スクリーンは超新星爆発の光を示し終え、再び宇宙の暗さを取り戻す。その闇に乗じて、黒いTシャツの男たちは姿を消した。
床に落とした日本刀は、踏み躙られて、折れていた。単なる木製の、模造刀だったからだ。

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