お店のおじさん

今朝、母方の伯父が亡くなった。九十歳を越えて、いくつかの病気とその治療を繰り返し、老衰の果て眠るように亡くなったので悲壮感は薄かった。
伯父は死んだ。
伯父は四人兄妹だった。末の娘が私の母にあたる。
伯父は商売を営む家の長兄として生きたと鑑みれば、その父、すなわち私にとっての祖父の人生も、伯父の人生の一端を担っている。

私の祖父は一九〇三年に生まれた。貧しい私の故郷のなかでなお、貧しく産まれた。祖父から先の祖先を辿るのは難しい。貧しさのなかボウフラのように沸いて、祖父は産まれた。歴史はもたない。
尋常小学校を出てすぐに丁稚奉公として働きに出た。いくつかの商売を転ずるうち、ふとん店を営む商家に、婿養子に近い形で這入った。
学はないが愛嬌はあったのだろう、祖父は独立しふとん店を興し、戦後の景気に合わせてそれを拡げた。
工場をつくり、綿打ち職人を抱え、羽振りのよい時もあったようだが、もとより金勘定に疎く、呑んべえの祖父は度々資産を潰しかけた。

結果、四十代半ばにして家督を長男に譲り、隠居生活にはいった。

家督を受けた伯父は、祖父の放漫経営を正すべく実直に働いた。親譲りの酒好きだったがそれに溺れず、収めた学業を頼りに、ふとん店を安定した経営体質に替えていった。

私の幼少時、時おり会う伯父は、小さいけれども安定した個人商店主として生きていた。スラックスに、黄土色の作業用ジャンパーを着て商用のワゴン車を運転する。
優しい伯父を、商店主としての愛着も込めて、私は「お店のおじさん」と呼んだ。

伯父の息子、つまり私の従兄弟にあたる人は、ふとん店を継ぐことなく公務員になった。それは賢明な道筋に思う。個人商店には冷たい風が吹いていた。時代の結果は今日にある。
伯父は自分が隠居する年頃に向けて静かにふとん店をクローズしていった。商売を大きく拡げることもなく、大きな負債を残すこともなく、静かに祖父の興した稼業に幕を引いた。

それと前後するタイミングで祖父は亡くなった。一九九七年。

祖父が亡くなると伯父は、祖父と、祖父の興したふとん店についての覚え書きを記した。
便箋数枚に書いた祖父の一代記を見返し
「おれは結局おやじを越せなかったなぁ」
と、自嘲気味に笑った。

伯父と最後に会ったのは三年前。そのすこし前、私は結婚し、式を催した。しかし伯父夫妻は老齢による体調不良で参加を見合わせていた。式からしばらくして、里帰りついでに妻を伴って伯父の家を訪れた。それが伯父と会った最後となった。
いくぶん体調の恢復した伯父夫妻は私たちを歓待してくれた。伯父の家は私の幼い頃のままだった。かつてそこでは健在だった祖父を囲み、毎年新年会がおこなわれた。
一部に商店の面影を残す平屋。来客をもてなすための高く広めの上がり框。油染み、飴色にひかる鴨居や梁。組子の施された障子。わずかに残された在庫品のふとん類が乱雑に置かれている。
伯父と伯母は年老いて覚束ないふたり暮らしの有り様を笑いながら語り、私たちの結婚を祝福してくれた。

結婚して妻とふたり、忙しない日々が過ぎた。時間をつくり実家に帰っても、伯父夫妻については、すこしづつ体が衰えていることや痴呆の気があらわれていることを遠巻きに聞くのが精一杯で、なにもできなかった。

やがて伯父と伯母は施設にはいった。老人ホーム。伯母のほうが伯父より痴呆はすすんでいた。
伯父はまだしっかりしていたが、時おり
「ばあさんが待ってるから、早く家に帰らなきゃ」
と口走った。
伯母は家にはおらず、自分同様に、施設にいることを忘れてしまう時があった。

二日前、私の父母が施設に、伯父の見舞いにいった。多少呂律が怪しかったらしいけれど意識ははっきりとしており
「つぎはみんなでディナーを食べに行こう」
と、明るい様子だった。

そして今朝、伯父は亡くなった。残された息子、つまり私の従兄弟はつつがなく葬儀の準備を進めているはずだ。これで本当に、我が愛しのふとん店は終わりを迎える。
残された私たちはすこし安堵している。私や私の妻、父母、なによりもっとも面倒をみてきた従兄弟夫妻もおそらく、すこし安堵していると思う。
それは伯父が長く生き、安らかに眠ったと思わせてくれたからにほかならない。最後まで優しいひとだったと、甥という立場に甘えて私は思おうとしている。

けれどもひとつ、気がかりもある。それは私たちと同じく残され、私たちよりも濃厚に伯父との時間を過ごしてきた、伯母のことだ。

伯父と伯母は老齢に加えて、幾ばくかの痴呆があったため、同時期に施設に入所したことは先に述べたが、しかしふたりは同じ施設に入所したわけではない。症状に差があり、より痴呆が進んでいた伯母は、認知症患者に特化した施設に入所した。伯父とは離れ離れになっていた。何十年も寄り添って生きながら、伯父の最後の日々、伯母は近くにいなかった。

施設にはいった伯母は、同じ施設に入所しているある男性を、伯父と勘違いし、ことあるごとに「お父さん」と呼び親しんでいた。見舞い客は最初
「そのひとは伯父さんではない」
と諭していたが、やがてそれが伯母の混乱を生むことになったので、訂正を諦めた。

何日か後、伯父の葬儀が行われる際、伯母はなにを理解しなにを思うのか。わからない。理解も、なにか思う必要もいらないのかもしれない。

夫と妻、親と子、家族とはなんだろうか。血の繋がりか、過ごした時間の総量か。瞬間に、偶然立ち上がる触れ合いか。家族が解体されているという言説に説得力はあるのか。故郷とはなんだろうか。場所がものごとを規定するのか。ひとが場所を規定するのか。当事者とは誰なのか。生者と死者はわかたれているのか。

割にあわないややこしいことを考えようとすれば間違えをのぞむ私は、わからないまま、感じるしかない。想像力や、過去や未来という論理を潰して、感じるしかない限界がある。

五十二日前、祖父の命日に、私と妻に子どもが生まれた。彼を、生きている伯父に会わせることは叶わなかったけれど、伯父にはいつでも会わせることができるだろうから、考えることはやめて、今日の夕飯の算段をしなければならない。

すべて世にありふれた話。つまるところ、私の自己愛についての話だ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?