cocu

目が醒めた。ベッドではない。ソファに首のみ凭れて、首から下は床に投げ出していた。目が渇き、視界が霞む。立ち上がり小便をして、付けっ放しだったコンタクトレンズを剥がし、洗面台で保存液につける。眼鏡を掛けてリビングに戻る。脱ぎ捨てられたシャツやズボン、ネクタイ、靴下を足で搔きよせる。ただし拾わない。
TVが流れているが、音はない。月曜日の午前、芸能ニュースが流れている。
ロウテーブルの上には、空いたプラ容器と割箸、発泡酒の空き缶が置かれている。そのうちのひとつはまだ半分ほど残り、温くなっている。
電気ケトルで湯を沸かす。ソファの上に置かれた二つの携帯電話をそれぞれいじっている間に湯が沸く。ソファの傍らに置かれたビジネスバッグをまさぐりピルケースを取り出し、頭痛薬を口に放り込む。噛み砕いてから、水で薄めた湯を飲み、ぐすぐすとうがいする。ついで、ピルケースから黒いサプリメント錠剤二粒を手のひらに落とす。同じように白湯で飲み下し、残されていた温い発泡酒も一気に飲む。上を向いてきつく目を瞑り、何度かしばたかせてから松田は、ひとつ口笛を吹いた。
昨夜のままの白いTシャツとボクサーパンツの上にジャージを着る。財布と二つの携帯電話、ピルケースと鍵とイヤホンを小さなバッグに放り込むと、サンダルを履いて表へ出た。晴れている。寒くはなかった。

煙草とライターを忘れたが、マンションには引き返さずにコンビニへ入る。bicのライターを手のなかに握り込むとレジへ行き、煙草の銘柄を伝える。バッグから財布を取り出すおり、ライターをバッグの中へ落とし、煙草の代金のみ支払う。レシートをゴミ箱へ捨てて店を出ると、すぐに封を切り煙草に火をつける。吸う。携帯で時間を確認すると11時を回ったところだ。松田は、久しぶりの休暇の残り時間を勘定し、大きく煙草をひと吸いすると揉み消して、足早に歩き出した。

街道をしばらく歩くと大型スーパーが見える。日に焼けて、赤ら顔の警備員が車を誘導しているのをしばらく眺めて、松田は店内に入る。
300mlの日本酒カップと500mlの缶酎ハイを籠に入れてから、惣菜コーナーを彷徨き、イカフライとハムカツを透明のプラ容器に入れる。

街道から横道に入った住宅街のなかに、ぽっかりと、あまり大きくはなく、特徴のない公園がある。松田はいくつかあるベンチのひとつ、南向きで最も日当たりの良さそうなベンチに腰掛けた。誰もいない。ビニール袋から買ったものを全てベンチの上に置くと、袋はベンチの背もたれを支える金属に結わえた。

フライ類にソースを掛けながら、箸を貰い忘れたことに気づいた。いや、おれが貰い忘れたんじゃない、あの店員が入れ忘れたのだ。松田は、責任の所在を自分にしてしまう癖を戒めるように、そう考えることにした。そして無理にでも苛立ちを現そうと、ソースの空袋を地面に投げ捨てたが、結局、指先についたソースを舐めながら拾って、ビニール袋に入れた。ゴミは、持ち帰らないと。
缶酎ハイを開ける。ひと口のんでからイカフライを摘み口に入れると、また指先にソースがついた。

ソースと脂に塗れた口を、度数9%の缶酎ハイで洗い流す。味も素っ気もないウォッカを人工甘味料で薄めた缶酎ハイが、胃にしみてゆく。煙草を吸う。松田の血管が収縮と膨張を繰り返す。また頭痛にならないよう、あらかじめもう一度頭痛薬を噛み砕き、缶酎ハイを流し込む。やがて少しずつ酔いがまわる。松田はバッグから仕事用の携帯を取り出して、本当に酔いがまわる前に、週末の報告を会社に送信し、いくつかの手配ごとを連絡する。この土日も現場は忙しかった。松田の仕事はウェディングプランナーだ。平日も休日もない。休めるときに休む。いつの間にか、休んだ平日の日中をこの公園で過ごすことが増えた。雨さえ降っていなければ。いや、少々の雨だったら、藤棚の下の砂場の淵に腰掛ければ濡れないことも知った。

連絡を終えて、仕事用の携帯をバッグに仕舞い、替わりにプライベート用の携帯を取り出す。迷惑メールが数件着ている。妻からの連絡はない。今日は何時頃帰るのか、こちらから尋ねておく。返信を待つ。

フライ類を食べ終える。べたついた手をジャージに擦り付け、缶酎ハイの残りを飲み干す。煙草を咥えて吸う。まだ本格的な酔いの感覚はやってこない。松田は酔いの感覚を求めて日本酒を開けるが、最近はなかなか酔いきれない。伸びをする。サンダルの素足にはまだ強い日が射さる。秋の空は青い。金木犀が薫り、空気が澄んでいる。正午を過ぎ、向かいのベンチに道路工事の警備員が座って、弁当を広げる。松田より20歳は上だろうか。真っ黒に焼けている。魔法瓶と弁当。弁当はスーパーかコンビニか、どこかで売られているものだ。警備員を見ながら松田は日本酒を啜る。妙に甘ったるいが、そのうちに酔いがまわれば味など二の次になると、松田は知っている。何度もここで飲んだ日本酒だ。弁当を食べ終えると警備員は上着を脱ぎ、肌着になった。いつの間にか東側のベンチにももう一人、作業着姿の男が座り、パンを頬張っている。松田は俯いて携帯を見る。やがて少しずつ酔いが兆してきたのか、楽しい気分になってきた。ピルケースからサプリメントを取り出して、ふた粒飲む。

煙草を吸い、揉み消し、ビニール袋に吸殻を捨てる。日本酒を啜る。繰り返す。次第に明るい気持ちになる。おれは運のいい奴だ、と思い、口許が緩む。おれは昼間から、酒を飲んで、生活に脅かされていない。連絡のつかなくなった奴らは可哀想だ。どこで何をしているやら。

残業や不定形で少ない休日は、正社員であれば当然だ。松田はそう思っていた。入社したのは遅かった。26歳で、初めはアルバイト同然の時給制だった。アルバイトも社員も出入りの激しい業界で、松田は耐えて残った。30歳を越えて正社員となり、今日まで働いてきた。現場では古株だ。大きな会社ではないが、右も左も分からないまま18で故郷を出て、生き残った。東京で、正社員として、結婚生活を送っている。上々だ。もっとも、この町はすぐに千葉県に接するあたりで、18まで暮らしていた地方都市と雰囲気が似ている。幹線道路沿いに大型のスーパーや電気店が並び、駅前の僅かな繁華街を除けば殆どが住宅街で、高層マンションが何棟か、まばらに勃つ。

日本酒も残り僅かになり、松田はまどろむ。午睡にうってつけの気候だ。首が落ちかけてはベンチに座りなおす。足下に散らばる吸殻は松田のものではないが、この公園の汚れ具合も故郷を思い出させる。
上京して最初に住んだ町は、妻の生まれた町だった。今より喫煙者が多かった当時でさえ、あの町の公園はきれいに整備され、吸殻が落ちていることは稀だった。
この町の公園はまた違った。故郷の公園に似ていた。だから松田は若い時分のように吸殻をポイ捨てしようかと思った。公園には既に吸殻や空き缶や菓子の袋などが散らばっており、持参のビニール袋に律儀にゴミを捨てる自分が馬鹿馬鹿しくなった。けれどまた、ガクりと首を落としてまどろみから覚めた松田は、右手に持つ吸いさしを、ビニール袋に捨てた。故郷ではそれなりに突っ張って生きていた。荒れていた。父親は家に居なかったが、たまに会っていた。アルバイトで貯めた金と親からの援助で上京し、音楽の専門学校に通い、また数々のアルバイトをこなした頃をつい思い返す。バンドを組んで都内のライブハウスを巡った。都内?

近くのコンビニのゴミ箱へ酒の瓶缶とビニール袋を捨て、また酒と、スナック菓子を買い求めた。店員の覚束ない接客に苛立とうとする。若い頃のように。しかし苛立ちすらも萎びた。再び公園に戻ると南向きのベンチには自転車を停めて女が座っていた。
松田は西向きのベンチに腰掛けた。低い日光が顔にあたる。ジャージを脱ぎ、発泡酒を飲み、スナック菓子を頬張る。煙草に火をつけて、無遠慮な眼差しで女を見る。
女は俯いて携帯電話を操作している。傍らの自転車にはふたつのチャイルドシートがつけられている。女は立ち上がり、カゴのなかから手帳を取り出すと電話をかけ始める。
松田はスナック菓子を摘むことにいつの間にか夢中になり、ゴクゴクと喉を鳴らして発泡酒を飲む。妻は土曜日、会社の研修出張に向かった。今夜には帰る予定で、夕飯は松田が作る。冷蔵庫に残る食材を思い出しながら携帯でレシピサイトを見て、献立を考える。公園の向かいにある小さなコインランドリーから老婆が大きな独り言を言いながら公園に入ってきて、松田は携帯から顔をあげると、ベンチの女は既に居なくなっていた。松田は缶酎ハイを開けて啜る。スナック菓子の袋に手を入れる。コインランドリーには手書きの文言の書かれたビラがガラス窓を覆って張られており、猫の餌が店の前に散らばって、今も黒猫と虎猫が路地に寝そべっている。老婆の手には枝切り鋏が握られて、公園の木の枝をいくつか落としては、猫の名を呼ぶ。「全部決まっているってのにねぇ、全部決まっているのに」
独り言を言い、かぶりを振った老婆は、一瞬松田と目が合うと憮然とした表情で腕を掻く。毛玉だらけのカーディガン越しに掻く。タクシーが停まり、降りてきた禿頭の運転手が便所で小用を足す。便所のわき、西側の入り口の車止め鉄柱に腰掛け、運転手は煙草を吸い、老婆に手を挙げて挨拶をする。
スナック菓子の粉に塗れた手を洗いに、松田は公園を横切って便所へ向かう。老婆と運転手の話し声を理解できないまま、再びベンチへ戻るとタクシーは走り去った。残された老婆は相変わらず大声や小声で独り言を繰り返し、やがてコインランドリーに戻る。
正社員になったのを見届けて、妻は松田の会社を退職した。ふたりの入籍ののち、松田が正社員となり妻が退職するまでの一連は、社内のみながあらかじめ理解しており、妻の手引きで全ては円満かつ円滑に進んだ。ふたりの結婚式は格安で松田の会社が請け負い、同僚たちは参列者かつ裏方として奔走した。親類たちは素晴らしい式だと褒め称えた。妻の誘いで入社したブライダル会社。式場内の音響係が初めての仕事だったと、自分の式中に感慨を廻らせる。時期を同じくして松田はバンド活動に終止符を打った。

缶酎ハイを開ける。飲む。数名の高校生がやってきて、思い思いに立ったり座ったりしながら、携帯をいじり軽口を叩き合う。何人いるのかわからない。4人?5人?紺色のブレザーに灰色の、チェックのズボン。スニーカー。ローファー。あの頃松田も制服を着崩し、地元の繁華街を我が物顔で歩いていた。上京してからも、貧しかったがその頃の気分を抱えていた。バンドを見に来る、さして多くはない客のなかには女の子もそれなりにいたが、妻は誰とも違った。松田すらも名前を知る、有名な私立大学に通っていた。女子大生らしいコンサバティブな格好は、薄暗くじめついたライブハウスのなかでは浮いていた。やがてふたりは付き合った。彼女の実家と松田の住むアパートは同じ町で、それもひとつの縁だった。同い年だったが、ひどく幼く思った。付き合い始めて一年を超えたころ、彼女はブライダル会社に就職した。

嬌声をあげながら公園を走り回る高校生たちはみな痩せている。殴り合いをしたら、勝てるだろうか?

全て飲み干してまたコンビニへ行く。酔ってはいない。酒と煙草と漫画雑誌を買い公園へ戻る。度々見かける中国人カップルが自転車でやってきて、いつも通り北向きのベンチへ座り、軽食を食べる。肉まんや菓子パン。16時になったとわかる。なにかのシフト仕事が終わる時間なのだろう。いつも同じ時間だ。
漫画雑誌を読み、煙草を吹かしながら残り時間を数える。17時には夕飯の調理を開始しなければならない。上司から報告を確認した旨のメールが届いた。上司も今日は有給休みだというのに。

あと何年働くのだろうか。義父は、会社役員としてまだ働いている。結婚への前段階として同棲したいと挨拶に行った日にみた義父。あの日、出産後しばらくの間里帰りしている義姉も、赤ん坊をあやしながら、かたわらで微笑んでいた。
あと何年働くのかわからない。松田は現実逃避するために酒をあおり、漫画の世界に没入したが、日暮れとともに読みづらくなっていった。それとも、働きたくとも働けない日が来るのだろうか。漫画雑誌を閉じてサプリメントをフタ粒、酒で飲み下す。セントジョーンズワート。別名セイヨウオトギリソウのサプリメント。

日が落ちる。ゴミを纏めて公園を出てスーパーへ向かう。食材を買う。家に帰ると脱ぎ捨てられて固まった自分の服を洗濯機に放り込む。掃除機をかける。汚れた食器を洗う。「おれ、家事くらいはするよ」
と言うと、新卒入社の佐倉は奥様が羨ましいですと、微笑む。
そんなことないよ。連日の飲酒で、時折、暴力的に性欲が兆す。ほんのたまに。疲れの度合いによるのだった。ひどく疲れているほうが。

退職後しばらくして、妻はイベント会社に再就職した。その、しばらくの間に、この町、この家に引っ越してきたのだ。まだ若く、体力はあったがそれなりに疲れていた。新しい生活のなかで、妻との性交渉が難しくなった。妻はこどもを欲しがっていたが、松田にとっては現実感のない話だった。やがて妻は再就職をした。未来についてはそれきりになったままだ。

部屋を片付けてからシャワーを浴びて、佐倉のことを考えながらオナニーをした。疲れていた。性欲が剥き出しになって、おさまらなかったが、手を洗って台所に立つ。

何度か、たまたま休みの朝、精子を採取して妻に渡した。その頃から家のなかで喫煙しないようになった。結果はうやむやになり、ふたりとも無かったことにした。いや、あれは、おれが無かったことにしたのか。おれの口角が下がっていたから。
妻の眼差し。

もう一度、公園へ。bicのライター。オイルが切れるまで擦る。妻からのメール。遅くなるという。何度かあった。たいがいひどく酔い、朝方に帰宅する。地元の海岸沿い、工業地帯を友人の車でドライブした。夜、空は鐵工所の反射で赤く染まる。女を殴り犯すあいつ。友人はいない。あいつとは連絡はつかないし、しない。公園。友人はいない。持て余す。米とパン。シチュー。サラダ。ラップをしてきたから大丈夫だ。薄い皮膜。皮膜のなかの法律。

月が動く。関係ばかりが増えて断ち切るには面倒臭い。友人はいない。佐倉に連絡をしようか。缶酎ハイを啜り、笹かまぼこを囓る。松田は知っている。ベンチに、若いカップルが座る。月の横に火星が光る。すべて無関係にことは進む。ライターを擦る。火を見る。火がつかなくなるまで。火が消えたら、帰宅して、眠るつもりだ。おれはついている。松田は漫画を読み、投げ捨てた。眼鏡も外した。金木犀の匂いと、佐倉の腋の匂い。イヤホンをつける。顔も声も忘れて、妻の匂いを思い出そうとしながら、サプリメントと頭痛薬を、日本酒で飲み込んだ。もう一度、ライターを擦って、暗闇だったらおれはきっと。

あの暗闇、妻の携帯電話が光った。
無機質に髙橋という文字があらわれて、やがて消えた。おれ以上に、無個性な名の着信だった。

それはそうなるだろう。
静かに笑った。
おれはまだ、冷笑を捨てされずにいる。
なあ、だってよぉ、

クスクス クスクス

耳に貼り付いているんだ

クスクス クスクス

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?