K S

北へ抜けた台風の残した温い空気の流れに、金木犀が混じり入る。中秋も過ぎていよいよ、短い秋が深まってゆく。
この町で暮らして、丸5年が過ぎた。この町へ越してきてからも、それまでの行き当たりばったりの暮らし振りを建て直してゆくには程遠い、先の見えない雲に囚われたような心持ちは相も変わらず、今朝も便所サンダルに足を突っ掛けて表へ出た。

10時を回る頃には雲も散り、秋というには強すぎる日差しの下、園庭のなかを駆け回る幼児たちのなか必死に彼女を探した。彼女はSという名だ。年長組で、幼稚園生活最期の運動会に臨んでいる。

5年前の秋、この町に越してきて最初に訪れた家は、Sの両親であるK夫妻宅だった。K夫妻は私と共にこの町で暮らすこととなった女の旧くからの友人だった。そして、私たちよりずっと前からこの町で暮らしていた。

K夫妻は、私たちの住む小さなマンションの近くに、古い賃貸しの木造一軒家に住んでいた。その頃Sは、まだ立つか立たないかの赤ん坊だった。ひとり娘のSはまだ小さく、赤ん坊慣れしていない私は戸惑って、出された茶の味もわからない。
やがてすぐ夫妻は転居することとなった。夫妻は家を買ったのだ。しかし、その家もまたこの町だった。この町に流れる川沿いに、湖のような青い色の家を建てた。3人はまた、ご近所となった。私たちはそれを喜んだ。

爾来今日まで、K家のひとびとと、度々会う。それは居酒屋であったり、近所の公園での花見であったり、お互いの家であったり。
その間私は、女と婚姻した。女は妻となった。私は夫となった。その結婚式に、K夫妻も参加してくれた。もとより妻の旧友である。忙しない日々のなか時折会う友人夫妻が、妻から見たK夫妻である。
K夫妻は、友人であった女のもとに突然あらわれ配偶者となった私に、優しさを傾けてくれた。ふたりとも、寡黙でありながら快活である。私のような朴念仁にも笑顔を向け、さりげない心遣いを常にしてくれた。ふたりの人柄はSにも受け継がれたのか、よちよち歩きのSは寡黙だが、はにかんだ笑顔は誰をも和ませた。

やがてSは幼稚園に入り、少しづつ活発になっていった。たくさん話すようになり、俊敏に走り回る。それは時期を同じくして妹が生まれたからかもしれない。いつの間にか、お姉さんになった。

妹のKもまた、この町の病院で生まれた。産後すぐに妻と見舞った。新生児室にKが寝ている。まだ体力の戻りきらない母親の傍らにSがいる。全身で甘えたい気持ちを押しころして、母親と手を繋ぐに留めていたSは、すでにお姉さんになっていた。ベッドに横になっている母親のSちゃんと、Sの横顔はそっくりだった。特に、高い鼻梁の繊細なバランスが似ている。私は夫妻を、Kさん、Sちゃんと呼んでいた。ふたりの娘の名はSとKだった。

SとKで出来あがった家族だった。

妻はKの誕生を寿ぎ喜んだ。旧い友人である夫妻に新しい家族が誕生したのだ。私も喜んだ。

しかし私は、K夫妻をどう呼んでよいのだろうか悩んだ。ちかしい気持ちはあるけれど、共に過ごした時間はまだ浅く、「友人」と呼ぶには面映ゆい照れくささがある。かといって単に「知人」と呼ぶにはあまりにも寂さが付き纏う。

この5年間で、私にはそういった、ひとことで呼び習わせないひとがたくさんできた。それは妻の友人たちである。

妻は内向きな私と違って、社交的な質である。交際から結婚を経てのこの5年間、妻の様々な友人たちと出会った。K夫妻も含めて全ての人たちが快い人たちであったのは、年齢的な理由もあったのかもしれない。妻も、そして出会った妻の友人たちも、社会生活を営みながら成熟への道のりを辿りつつある年ごろ、青春を終え朱夏に向かうなか充実した日々を送るもの特有の、強く優しい年ごろだからだろうか。

とはいえ私はまだまだ食い詰め者であり、眩しく見えるそのひとたちを「友人」と呼ぶには気後れする様な、つまり己の脆弱さに尻込みをしていた。自分のつまらなさに辟易しながら生きていた。

まだ何者でもない私が屈託なく「友人」と呼べるのは、お互い何者でもなかった青春時代に出会ったものだけだった。
学生時代に出会ったものたちについては、たとえ何年会わずともやはり「友人」という言葉がするりと出るものだ。そういった感情、屈託ない感情は、なかなか妻の友人たちには向けられなかった。それは殆ど羞じらいに近いような感情に思えた。

「友人」なんて気安く呼んでよいのかしら?
私は余計な羞じらいが様々なことを邪魔してしまう愚か者なのだ。ひとになかなか近寄れない。

けれど、それで良い気もしていた。

K夫妻とは、時折会ってはお互いの幸福を願う、着かず離れない日々を送れたらいいと思っていた。仮にそれは「友人」と屈託なく呼べないような羞じらいが伴い続けても、もう単なる「知人」ではないし、それで良かった。

曖昧だけれども愛おしく、近づきたくても茫洋と周りを漂うような関係性。

若い日々、個人をぶつけ合い、お互いを擦り合わせるように捏ね上げた「友人」たちともまた違う、儚く甘い関係性。

流れる雲の切れ間から太陽が刺す。11時。Sは懸命に組体操をしている。四つん這いになり土台となったSが目前にいる。K夫妻と妻はカメラを向ける。Sの背のうえに、Sの同級生が立ち、号令に合わせてポーズを決める。そしてまた、号令に合わせて組体操が崩れ、立ち上がったSの背中には靴跡が残る。

このあと、Sはマラソンを走った。私はいつの間にか声をあげていた。ゴールの直前でSは、男の子をひとり抜かした。

午前の部が終わると、私と妻はK夫妻にお呼ばれした。園庭でSちゃんが作ったお弁当のお相伴に預かる。じゃがいもと帆立の炊き込みご飯。人参のラペ。春巻。胡椒の効いた鳥。トマト。Sちゃんのお母さん、つまりSのお祖母ちゃんから、枝豆や、大きく甘い葡萄をすすめられる。SとKは、ゆっくりと食べている。

午後の部で、Sはリレーを走る。未就学児のKはマイペースに、落ち葉を拾ったり、柱の周りをグルグルと走っては、両親や祖母に甘えている。

リレーが始まる。
K夫妻はカメラを構えている。
「友人」とも「知人」とも違う曖昧な関係性のなかで、私はまるで「親戚」のような気分がしたり「近所のおじさん」でもあった。時間の積み重ねのなかでいつか屈託なく「友人」と呼べるのかもしれないけれど、そうでなくとも良いと思った。園庭を囲む全ての人は間違いなく「他人」で、それも悪くないと思った。それはK夫妻に対しても、私がその時背おっていた息子、明々後日には1歳になる私の息子に対しても同じ気持ちだった。妻に対しても。
みな、ひとりで「他人」である。けれど、どんな関係性でも、居てくれれば良かった。存在だけで良いと思った。

K家の運動会を観に来る前に、私と妻は息子の保育園の運動会に参加した。
便所サンダルを突っ掛けて、朝の9時。今日の時点でまだ0歳の息子はハイハイレースをした。ひとびとの声がこだまする体育館のなか、私は全てが白昼夢に思えた。5年前には夢想もしなかった現実があった。息子の運動会から早めに引き上げて、K家の運動会、Sの幼稚園生活で最期の運動会を観に来たのだ。

13時。息子は疲れて、私の背中で眠っている。
昼食を終えて大人たちは、疲れている。

この町で暮らして、丸5年が過ぎた。
全てが予想外に過ぎていった。
その帰結が目の前にあった。リレーは5年後へ向けて折り返す。バトンをSが掴む。過去と未来の狭間。一瞬の現在を掴んで未来へSが走り出す。

Sは前を向いていた。細い足が地面を蹴って、地球を滅茶苦茶なスピードで回した。

Sはひとりで存在していた。まわりには無数のひとりが存在していた。

Sはバトンを手渡した。
ちいさなひとりがちいさなひとりに。
白いバトン
そして
全部が秋に溶けていった

また、楽しい冬がやってくる。

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