パドック

依頼された住所についた。アポイントより早めに着いたので、周りを歩いた。団地の北側にはささやかな川が流れて、雑草に覆われた土手のなかに、ちらほらと咲く花が春を主張している。携帯灰皿に揉み消した煙草を収めて、依頼先のチャイムを押す。

男はTシャツに短パン姿で扉を開ける。おそらく同世代。ふくらはぎは堅そうで、肌は健康的に焼けて張っているが、髪は薄くなりかけている。その下に、赤ん坊のように大きく眠たそうな目がふらついて、小さな声でよろしくお願いしますとつぶやく。

家のなかを査定して、出来ることと出来ないことを伝える。その間、交渉が割れないよう緩衝材として吐いた世間話から、すこしだけ距離が縮まる。訥々と。

男はこの団地に越したばかり。裕福ではない。
しかし生活は暗くない。
そうだろう。
なぜなら、家の中、破れた襖やひしゃげた畳、偽物のフローリングに日光が染みついていたから。

けれど男は、より生活を改善させたいと願っていた。静かな猜疑心が、小声に熱を与えて隠しきれない。これまでたくさん、邪魔が這入ったらしい。でも諦めていない。ときおり、眠たそうな目が開き、三白眼が睨めつける。

おれはほんの少し、彼を好きになっていた。
なるべくよい提案を試みる。

話がひと段落して、彼は自分の家の中で最も好きな窓について話す。

「台所のこの窓からの景色が好きなんです。北向きになるんだけど、川が見えるから」

換気扇の下にある小窓を開けると、先に逍遥した土手と川が見える。
団地の三階から、小窓で区切られた春を眺める。

そこを突然、馬が走り抜けた。

おれは彼と顔を見合わせた。
馬が土手を走り抜けたのだから。

考えれば、理由は無数にある。けれど、走る馬の存在感は強かった。ただ走る馬に理由はいらない。

おれは彼に、無駄金を使わないで済むような提案を再度して、商売を切り上げた。耳寄りな情報を渡した。つまり、おれがいる会社よりもっと良心的な会社を紹介した。

馬が走り抜けたから。

違うかたちで彼と再開したいけれど、あの団地が何処なのかも忘れた。やがて彼の顔も曖昧に溶けて、でもお互い猫背だった。不必要に頭を垂れあって。

狭い家のなか、場違いなサイズのベビーベッドは憶えている。ニスは剥げて。

走る馬の筋肉は、意味も理由も蹴散らした。
おれと彼は、あの小窓を覗いたとき、なにも考えないでいられた。

馬が走り抜けたから。

まだおれたちは、下見している。
いつか勝つために
馬の筋肉以外は、考えないで。
なあ、そうだろう?
気づけばおれも、ひどい三白眼になった。
真似するなって、笑ってくれよ。

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