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手を入れる

 おととい、コチュジャンをきかせてホルモン煮込みをつくってもらった。
 旨かった。
行きつけの肉屋で調達したから、家事サポーター(ヘルパーさん)さんに頬張れるほどの大きさに切ってもらって、見た目には悪戦苦闘しているようでも、噛むほどに滲みでるエキスに満足なひと時を過ごすことができた

 ところが、一時間ほど経ってから「通りゃんせ」状態に陥ってしまったのだった。
 つまり、充ちたりたひと時のあとに、強烈な胸やけと胃から十二指腸あたりにかけてギリギリとした痛みが寄せては返すのだった。
 泊まりのサポーターさんに胸やけに効くツボ押しをお願いして、すこしづつ鎮まるにつれ、そのまま眠りについた。

 翌朝、目が覚めると鳩尾みぞおちに軽い痛みが残っていて、食べる気になれなかったので、お茶といつもの薬だけを飲んだ。
 すると、不思議なことに軽い痛みまで退散したのだった。
 科学的に証明できるのかもしれないし、理由を知っておいたほうが役立つのだろう。
 でも、理由まで覚えておこうとすると、不思議さに内包されたインパクトが薄らいで、すべてを忘れてしまいそうな気がする。
 だから、暴食を控えることと、その胃痛には水分補給をためすことを心にとめておきたい。

 すっかり気分がよくなったころ、日中の青年サポーターがチャイムを鳴らした。
 ぼくは彼を待っていた。
暮らしのほとんどの場面で第三者の力をかりなければ生きていけないという立場を考えれば、あまりにも身勝手な言い分だと解ってはいる。
 けれど、ぼくの言葉を聴き取り、入力するサポーターによって、同じテーマでも書く道筋がこどものころに読んだ絵本のページをめくるように導きだされるときと、意識が濁ったように動かなくなるときがある。

 三週間前、彼がサポートに入ったとき、書きはじめた文章を一行も進めないまま、ぼくは下書き保存に置いておいた。
 五千字あまりのぼくにしては、ずいぶん長めの一文だった。
障害を土台に、ずっと引っかかってきたポリコレについて自分の考えをまとめようとしていた。

 でも、三週間は長すぎた。
基本的な内容に変わりはなくても、日常の一コマにからめた部分は事実として「いま」にあわなくなっていたり、感情の起伏によってニュアンスが微妙に違っていたり、リアルさを文字にしたくて手を入れているうちに、矛盾まみれになり、仕切り直しすることになった。
 
 ぼくには、ずっと応えられていない彼からのリクエストがあった。
「小説を書いてみてほしいなぁ」
彼によると、ぼくの文章の特徴は、情景の切り取りかたの繊細さらしい(自分で書くと、こんなに照れくさいことはない)。
 それに、いろいろなしがらみがあって、本心を言葉に換えられない部分も多いから、「小説」がいいという。

 交代までずいぶん時間があったので、頭の中だけで筋書きを描きながら、行きあたりばったりの「小説」を書きはじめた。
 それにしても、とんでもないところに足を踏み入れてしまった。
「生きにくさ」とか、「健常者との壁」といったテイストを取りこみながら書き進めていると、ぼくの身のまわりには事実や本心を語りにくいことが無数に点在しているのに驚かされた。
 でも、裏返せば「伝えたいこと」でもあって、こちらも踏ん張って書くことになった。
 こちらは、一万字を超えるかもしれない。

 息子を見守るように、大切に仕上げていきたい。
どれぐらい、手を入れることになるだろうか。
 noteへの投稿は、かぎりなく百%に近くぼくの言葉を忠実に入力してもらっている。
 五千字あまりのエッセイ(照れ笑い)と、一万字を超えるかもしれない小説(爆笑)と。

 除夜の鐘を聴くまでに投稿できるだろうか。

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