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たったひとつ

 原稿一枚(四百字)で十分な小ネタを書こうとしたら、ぼくの各マガジンの投稿本数が目に入った。なんとなく数えてみたくなった。

 マガジンは七部に分けられていた。他人事のように書いてしまうのは、ほとんど思いつきでカテゴリー分けしてきたからだ。最初から見通しをもって進められるほど、ぼくは賢くはない。

 七つのマガジンにカテゴリー分けされた投稿を目算して合計すると、最初は一九四本だった。もう一度、数え直すと一九五本になった。
三回目は面倒くさくなって、あきらめてしまった。
 正確な本数は抜きにして、半年あまりで二百近く投稿をしていた。

 ぼくは「言うだけ番長」なところがあるうえに、本当に行動をともなうことに関しては長続きしたことがなかった。
 おもしろいもので、唄や食といった趣味の世界になると十代後半あたりからなにも変わらない。
 とくに、唄の領域になるとデビューのころから変わらないスタイルを貫く人たちに惹かれてしまう。
 言いかたを換えれば、メジャーになって歳を重ねると、この言葉には「こういう意味を込めている」とか、この曲は「こんなふうに聴いてほしい」といったが見え隠れするアーティストも多い。
 それが説教くさく聴こえて、ぼくは遠ざかってゆく。

 大親友の射場くんが思春期の頃から大ファンだったロックミュージシャンのライブを聴きに行って、ずいぶんガッカリしたらしかった。
 理由を訊ねると、数十年を経て恰幅がよくなっていたという。
 声量が衰えて、迫力が失われてしまっていたようだけれど、射場くんのリアリティのある言葉がぼくの頭から離れなくなってしまった。
 「ロッカーは太ったらおしまいやなぁ」
 根拠があるような、ないような、説得力があるような、ないような…?
 この一行の曖昧さとリアリティさが同居できるから、世の中はおもしろい。
 
 投稿内容には、おおざっぱにぼく目線で二つのジャンルに色分けされる。
 一つ目は力を入れて書きたいもの。
 カテゴリーで言えば、「自由」について、「コンプライアンス」について、「コロナ」について、「友部正人というアーティストの人と作品」について、「これまで出逢ってきたたくさんの友人」について。
 一つひとつがおたがいを引き寄せあって、複雑にミルフィーユした内容になることも多い。

 ただし、力が入っているからといって、不特定多数の人にむけて書こうとしているわけでもない。
 どちらかといえば、過去と将来を比べるとおそらく後者がはるかに短くなりそうな中で、自分自身が人とまちと世の中をどのように受け容れてきたかを書き残しておきたいと思っている。

 ぼくのアンテナが反応するジャンルは、マイナーなものがひしめき合っている。
 だから、共感してもらえる範囲にこだわりたいわけではなくて、立ちどまった一人ひとりに伝われば、それだけでかまわない。

 二つめ。
サポーター(ヘルパーさん)なしでは暮らしていけないぼくにとって、「障害」は逃れられない重要な背景の一つに違いない。
 けれど、暮らしぶりをありのままに綴ることで、「障害」なんてどうでもよい部分があること、介在させると見えにくくなる部分があることを感じ取ってもらえる誰かとめぐり逢えればうれしい。
 ただ、それも読み手のフリーハンドで。

 ついでに書けば、やはり関西人だから、サービス精神がゼロではない。
 日常の一コマで突っこんでもらったり、吹きだしてもらったりすることができれば「満足できるかな(これはぼくが大好きだった遠藤賢司さんのアルバムタイトルでもある)」。

 この投稿を書きはじめて、最後だけは決めていた。

 昨日、電動車いすで二十分ほど歩いて、駅前の王将で「揚げそば」と餃子一人前をテイクアウトした。
 あの麺のバリバリ感がたまらない人も多いのか、麺と具材が分けてパッケージされている。
 サポーターのSくんに「これはなぁ、バリバリ感が最高なんや。混ぜこぜにせんと、具は乗せるだけやで」と気合の入った念押しをして、揚げそばに箸をつけたのだった(正確には「つけてもらった」)。

 すこしの不可解さに、心の中で「首をかしげる」というあり得ないワザを駆使して、ここでは載せられないグチを連発していた。
 いつの間にか、グチは毒舌になり、乱れ咲きしたものの、しばらくすると口数は減り、不可解さもあきらめへと変わっていった。

 王将の揚げそばの主役はスナック菓子を連想させるバリバリ麺だと、ぼくは信じている。 
 でも、ぼくを虚しくさせてしまった正体は、まったく別の存在だった。

 けっこう、大きなエビが二匹も入っていて、大量に仕入れると「安くなるのかなぁ」なんて考えた。プリプリ感にしびれた。
 チェーン店といっても、濃い味つけではないから飽きもこない。
 猫舌のぼくには片道二十分で、ちょうど食べごろの熱さ加減になる。
だから、「揚げそば」はぼくの定番メニューのひとつになっている。

 さて、昼食も終盤を迎えていた。
 ベッドに寝ながら横目で見ると、発泡スチロールの容器の中に具材も麵もほとんどなくなり、Sくんは割り箸で掻き寄せた残りクズをキレイにさらえて、何度か口へ運んでくれた。
 それでも、ぼくの心に浮き沈みする不可解さの主役は、とうとう登場してはくれないのかと完全にあきらめようとした瞬間、器用に箸先につままれた「うずら玉子」が目に飛びこんできた。
アンでコーティングされて、テカテカしていた。

 八宝菜の具材の中でも、揚げもの屋のフネに盛られた一品の中でも、グンを抜いてウズラ玉子を見つけると、ガマンができなくなった。
ぼくの好みは、けっこう固めで歯ごたえのあるものだった。
 ひと串三個のフライを、立てつづけに四本いただいたこともあった。
あのころ、ぼくには簡単に胸やけしない若さがあった。なつかしい。

 テカテカしたウズラ玉子に、ホッコリした気分になった。
「それ、するどすぎるわぁ。そのウズラ玉子、ぼくが好きなものを取っておきたいの、覚えてくれてたんやんなぁ」
 はっきりと訊ねるでもなしにつぶやくと、Sくんらしい中途半端な言葉が返ってきた。
 「そら、ウズラ玉子が好物なんわ知ってたけど、なにげなしに介助してたら、そうなってしもうただけやけど」
 Sくんの言葉が真実なのか、ぼくが彼の掌の上で転がされていたのか、劇的な展開など待ってはいなかったけれど、そこはかとない温かさが伝えられただろうか。

 エンディングでの登場となったウズラ玉子も、かなり固めでぼく好みだった。

 こんな地味なエピソード、「サザエさん」ならちょっと脚色して使っていただけるだろうか。

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