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「私は自らの手で冠を戴くのだ。」_リドリー・スコット監督「ナポレオン」(2023)。

ナポレオン・ボナパルトの生涯をリドリー・スコットが描いた2023年の映画「ナポレオン」より。

その数期極まる生涯を1本の映画に収めるのは相当に無理がある。作劇において、リドリー・スコットは割り切った。つまりホアキン・フェニックス演じるナポレオンは、ジョーカーのような預言者すれすれの狂人としてでもなく、(同じくスコット作品たる)「グラディエーター」のコモドゥス帝のような愚王としてでもなく。平板で平凡で、そして女の愛を求める、功名心の強い成りあがり者として、おおよそ大王らしくなく描写される。
どういう風に描いたか。
英雄譚としては(そしてハリウッドこのみな明朗な活劇としては)あるまじきシニカルな、ナポレオンの戦歴の描き方から見てみよう。
つまりスコットは、勝ち戦は意図もあっさりと描写し、苦戦や負け戦をあえて引き伸ばして…もといじっくりと描くことで。「勝てない闘い」を避け「勝てる」かつ「意味がある」戦場を見つけ出すことに長けていたナポレオンの数少ない負け戦、あるいは勝ち戦における数少ないカッコ悪いところにスポットを当てて、あたかも、あら捜しをするかのように、ネチネチと描いている。

劇中描かれる4つの会戦を追いかけてみよう:

ナポレオンは24歳にして、トゥーロン攻囲戦にて得意の砲術でイギリス艦隊を撃退。英雄として名をとどろかせた。
1793年、英仏両軍は重要拠点のトゥーロン港をめぐって消耗戦をくり返していた。ここで若きナポレオンはトゥーロン港を直接攻撃するのではなくトゥーロンの内港と外港をつなぐ位置にあるレギエットの要塞を攻略し、イギリス軍にとって不可欠な海からの補給を断つ作戦を将軍に進言した。この進言は一度は断られたが、最終的に採択され、フランス軍は勝利する。ナポレオンの成り上がりの発端とするうえで、この逸話を映像化するのは、珍しく、かつ、慧眼と言えるだろう。
ナポレオン自身についていえば、要塞に攻め込む途中、騎馬にイギリス軍の大砲の弾が直撃し、転ぶも、兵士たちに混ざって突撃、肉弾戦に打ち勝つさまは、軍人らしく勇ましい、の一言。
勝利を迎えた翌朝:馬の死体から砲丸をほじくって、母に送ってほしいと弟に渡す様は、まるでヒャッハーな戦国武将の様で、異様であると一言。

1798年、ナポレオンはフランスのエジプト遠征軍を率いて、「ピラミッドの戦い」の勝利。
史実通り、自軍は密集方陣戦術で固め、かたや掛け声ばかりは勇ましいエジプト軍を砲撃一発で恫喝し慄かせるナポレオンの聡さが表現される。
そこで戦闘シーンは終了されるため、「キングガム・オブ・ヘブン」よろしく異文明同士のオリエンタルな、スケールの大きい戦闘を期待していた観客にとっては、がっかりさせられることとなる。

1805年、ナポレオンはアウステルリッツの三帝会戦で、オーストリア・ロシア連合軍に勝利。
敵軍を自軍へ引きつけに引きつけた挙句、凍った湖に大砲の弾を打ち込んで、突撃してきた敵歩兵を海に沈める様は容赦ない、の一言。他方で、イケメンなフランツ2世 (神聖ローマ皇帝)との会見は、比べてみれば、ナポレオンがまるでブタのように、みにくい。

連戦連勝で知られた「作戦の天才」が表舞台にのし上がった以上4つの戦いを、スコットは過不足なく描き切る。
その釣り合いをとるかのように、彼の二つの重大にして致命的な敗北を、まるで崖から突き落とすかのようにして、愚かしく思い上がった軍人の成れの果てとして、描く。
すなわち、ナポレオン、大陸封鎖令から離脱したロシアを制圧すべく、60万の大陸軍を率いて首都モスクワへ入城。 しかし、ロシア軍の焦土作戦のために厳寒の中を総退却して壊滅状態に。
ナポレオンは、(後述する)元妻ジョセフティーヌへ宛てた手紙も虚しく、大炎上するモスクワ市内で、茫然とたたずむのみだ。
そして、「ワーテルローの戦い」でイギリス・プロイセン軍に敗北。
戦列歩兵の再現において、いかにハリウッドが携わっているどいえど、「戦争と平和」や「ワーテルロー」といった往年のソ連製の人海戦術には及ばない中で、ナポレオンという人格のスケールも、はるかにソ連製の大物感には及ばない。
すなわち、ナポレオンの指揮観は既に鈍り、判断がいちいち遅いことを敵軍のウェリントン公に見抜かれてしまう程。雨を待ち、プロイセン軍の時間を稼がせた挙句、戦力差であっさり敗北する様は、カッコ悪いの一言だ。

戦闘以外のナポレオンも、どこか冴えない感じだ。すなわち、フランスの危機を聞いたナポレオンが地中海を脱出してパリへ戻り、ブリュメールのクーデターを起こした快挙は、パリ市民に歓迎される一方で「ジョセフティーヌを他の男に取られるのが嫌だったからだ!」と新聞に書き立てられる形で演出される。
オーストリア皇女マリア・ルイーザと結婚し、ルイーザが後継者となるローマ王ナポレオン2世を生むくだりも、前者はオーストリア皇帝の娘をいただきたいと、ナポレオンが迫った結果として描かれる。
しかし我々が一番目にすることとなるのは、ナポレオンの「疲れ」と「老い」であろう。
開戦前の戦略会議において、カメラは悪意を持って、ナポレオンの禿頭にピントを合わせる。退位しセントヘレナ島へと流刑となったナポレオンは、ただの枯れたおじいちゃんとしてしか、カメラは映さない。

なぜこのような描き方をしたか。
考えられる理由は二つある。一つは、リドリー・スコットがイギリス人らしいアンチ・ナポレオンの人だから。もうひとつは、リドリー・スコット好みな、痛ぶられてもなお強い女2人の引き立て役にしたかったから。
その1人が「自由・平等・友愛」を掲げたフランス革命の最中、ゴミを投げつけられ処刑されるマリー・アントワネット。もう1人が、ナポレオンを時に支配しときに支配される、彼が唯一愛した女:ジョセフティーヌ。

結論。本作で描かれるのは、『戦争論』で知られる軍事学者クラウゼビッツが「勝てる闘いしかやらなかったから」と称した「強さ」の秘密ではなく、内政や国家拡張といった政治の舞台を殆ど見せず、基本ジョセフティーヌとの褥や宮廷での贅沢に拘り、市民のことは戦争の時にしか興味を持てない、戦争しかできない欠陥人物であるかのように描写される、ナポレオンの姿である。
エンド・クレジットで、ナポレオンの率いた戦争が生んだ多くの死者数を並びたてるのも、イギリス人らしい捻くれがなせる業と言うべきか。
ナポレオンの一生を映画で語るという無茶ぶりに答えるべく、セント・ヘレナ島の彼ならともかく、若かりし頃すらナポレオンも御年49歳のホアキンが演じるために、こういう描き方しかできなかった…というのは、さすがに言い過ぎだろうか。
あるいは、ロシアの某大統領を、ナポレオンに重ね合わせているのだろうか。

とはいえ、そこは、皇帝ホアキン・フェニックス。決めるべきところはバシッと決める。
すなわち、1804年、12月2日にパリのノートルダム大聖堂にてナポレオンに対してフランス皇帝の戴冠式が行われる下りは、ホアキン、ジャック=ルイ・ダヴィッドが「ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌ」で描いた英雄の佇まい、そのもの。後世に語り継がれるとおり、教皇の手によってではなく自らの手で冠を被り、次いで自らの手でジョセフティーヌに戴冠する様は、次の台詞と相まって、心震える瞬間だ。

[Napoleon Bonaparte][3]: I found the crown of France in the gutter. I picked it up with the tip of my sword and cleaned it, and placed it atop my own head.


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