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【読書感想文】『人間の絆』を読んで

 「いいから『人間の絆』を読みなさい!」

 僕が人生について思い悩んで弱音を吐くと、妻は決まってこう言うのだった。サマセット・モームを代表する長編小説のことである。

 十年以上になる妻との付き合いの中で幾度も薦められ、その度に拒否してきた。名作だとは聞いていたが、彼女が薦めてくるタイミングから考えて、人生訓に満ちた小説であろうと思われた。どうも妻に説教されているようで気が進まない。それだけの理由で「いつか読むよ。」と有耶無耶にしてきた。プライドと偏見が邪魔をしたのだ。(関係ないが、オースティンの『自負”Pride”と偏見』も妻の好きな小説である。)

 薦められては拒否する、という流れがもはやお約束のようになっていたのだが、まとまった時間が取れたこともあり、とうとう観念して読むことにした。

 結論としては、むしろ十年間読むことを拒否してきて良かったと思った。もっと引っ張ってから読んでもよかったかもしれない、とさえ感じた。というのも、読み進めていくにつれ、この小説が妻の人格形成に大なり小なり影響を与えていることが分かり、妻の謎について種明かしをしてもらっているような、不思議な快感を覚えたからである。

 いつしか妻と百貨店に行った時だったが、装飾華美なものを嫌う彼女の性格に似合わず、ペルシャ絨毯については妙に興味を示すので不思議に思ったことがあった。『人間の絆』においては、最重要アイテムである。没落した老詩人クロンショーが主人公フィリップに「人生の意味」を解き明かすためのヒントとして手渡したのが、一片のペルシャ絨毯なのだ。この小説の影響だったのか!胸をすくような思いがした。

 話は変わるが、大学生の頃、私としては真剣な、非常に込み入った恋愛をしていたことがある(相手は妻とは別の女性である)。ところが、周りの友人たちは私の一連の行動に全く理解ができなかったようだ。その恋愛の全てが破綻し、清算が終わった後、私に残った汚名は「淫獣」である。しかし、一人だけ、面白がりつつも常に真摯に相談に乗ってくれるひとりの後輩がいた。

「人間って、わけのわからない衝動に突き動かされて、自分でもわかっていながら、理不尽な行動に出ることってあるよね。」

 そんな態度で接してくれたので非常に有難かった。その後輩が現在の妻である。

 『人間の絆』の主人公フィリップも、自身で全くコントロール不能な衝動に突き動かされ、複数の女性に翻弄されながら恋と格闘する。その姿は、否定的にではなく、誰にでも起こりうる人間の業として描かれている。おおげさかもしれないが、妻はこの小説を読んでいたから、私に軽蔑や嘲笑の目を向けないでくれていたのだと思う。私の知らないうちに、この小説が我々の絆になっていたのだ。私にしつこく読むように薦めるのも当然である。

 これからも時折読み返し、その度どんな模様をふたりで織ってきたのか、振り返っていくと思う。

 


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